市川崑の映画版『雪之丞変化』はモダンな映像美が素晴らしかったが、主役の長谷川一夫が大石内蔵助の様に男っぽく立派すぎて、今ひとつ「雪之丞」というイメージではなかった。今回の玉三郎は「雪之丞」(そのタイトル・役名だけでえもいわれぬ美しさを想像させる美麗な女形)のイメージそのもの……ではあったものの、まるで市川崑に傾倒したかの様なスタイリッシュ志向の映像演出、セットのない舞台をそのまま使う前衛的モダニズムの趣向が、せっかくの玉三郎の雪之丞を素直に楽しませない「枷」となってしまった。ままならないものである。

様々に挑戦的な演出・舞台が見物を楽しませている昨今、その芝居が「歌舞伎的なのか」あるいは「歌舞伎的ではないのか」という議論や自問は、各所各人の胸の内にくすぶり続ける、常に「即時代」的な問題なのかもしれない。ここで細かに考える事は省くが、僕の場合、その歌舞伎芝居がたとえ「歌舞伎的ではない」(すなわちそれは歌舞伎的ではなく「演劇的である」という意味になる)場合でも、もしそれが演劇的に新しく、革新的かつ必然的な演出意図を感じさせるものであれば、「歌舞伎的」であろうがなかろうが、何ら問題なく楽しみ、歓迎する心でいる。

さて、今回はどうだろうか。

以下、今回の映像演出の各要素についての感想列記する。

  1. 玉三郎の過去の舞台映像を多用する手法は、雪之丞=玉三郎として「芝居の中の女形」と「現実当代の女形」をダブらせる演出として、ある程度の納得感はあった。……「ある程度」と消極的な言になるのは映像の編集やエフェクトがとにかく稚拙、散漫で、この過去映像の使用は大枠としてはある程度「演出計画」の意思が認められはするものの、統一的・俯瞰的な(共通のエフェクトをかける、あるいは逆説的にてんでバラバラにする、等)「演出の実行」という点において、感心するに足る美意識が、残念ながら全く感じられなかった。
  2. 舞台の上のカメラの映像を舞台上のスクリーンに映すという冒頭の演出。花道鳥屋から舞台裏へ、そして現実の舞台へ──というメタな世界構築の趣向は面白いとは思ったものの、この「舞台上のカメラの映写」というのは20年前ぐらいからオペラの演出でしばしば見かける演出手法で、はっきり申して「古い」。上記、冒頭では「メタ」の演出効果が面白く感じられたものの、その他の場面ではあまりその使用の必然が感じられず、必然のない古い演出(をあたかも新しいものの様に披露するさま)は、ただただその古さを感じさせるばかりだ。
  3. 舞台の役者とスクリーンの役者が芝居の応報をする演出。これは個人的には「観客の視線や注意力を活用してズームアップに相当する表現を実現する歌舞伎役者の力」と「カットやアップでそれを表現する映像」の対比として面白く観られたものの、演劇としての必然性や新しい思想というものはほとんど感じられず、むしろ、早変わり・一人五役といった歌舞伎的魅力的手法からの大きな後退としか思えなかった。こんな中途半端な事をするぐらいなら、脇田一松斎は一人五役の内に含むべきではなかった。
  4. 瓦版売りと町の噂の映像。これが最も酷かった。現代的話題の挿入で物語に同時代的な色合いを加味したかったのだろうが、やり方も古くさい、語られる(新聞の見出しとして表示される)内容も時代遅れで寒い、そして何より、シルエットを用いた映像の造りがあまりにも稚拙過ぎる。玉三郎の過去映像、役者を新たに実写した映像はまだ鑑賞に耐え得るし、配役もある事だから最早どうしようもなかろうけれど、このエフェクト映像だけは今からでも作り直した方が良い──という程の低レベルである。

以上、映像演出に関しては、玉三郎の過去映像(これは現在の実演と過去の映像の共演として、きっとご本人がどうしても演りたかった事だろうし、こればっかりは今演っておきたいという気持ちも解らないでもない事だから受け入れられもするが)それ以外、一切褒めるべきところはなかった。こんな無理をして役者を絞り込むよりも、通常の人数、通常のセット・道具を使って普通に面白い芝居作りを目指す方がよっぽど良いと観客に感じさせた時点で、こういったスタイリッシュな現代演出は失敗と断じざるを得ない。

ただし、役者は皆素晴らしかった。

雪之丞そのものと錯覚させるかの様な玉三郎と極上の衣裳の美しい佇まい。初日から見事と言う他ない中車の出来栄え(特に中村菊之丞が素晴らしかった)。そして、サワリながらも玉三郎と様々な劇中劇を演じてみせる七之助。初日からしてここまで充実した新作というのは今迄観た事がないというレベルである。なればこそ一層、この演出は残念でならない。


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