浜辺美波と神木隆之介がとにかくかわいい。しかし、この映画の主役は間違いなく中村倫也。そして、その中村倫也=明智恭介に注視して観れば、この映画は単に原作のコメディー化というものでなく、「日本のミステリー映画、保守本流の美学」に則し、かつ、それをアップデートする名作である事が見えてくる

今村昌弘さんの大ヒット小説、鮎川哲也賞受賞作・デビュー作の『屍人荘の殺人』については、もはや語るまでもないでしょう。「これは絶対おもしろい本」という直感が働き、僕も発売してすぐに買って読みましたが、まぁ、その直感を上回るおもしろさ、発想の凄さ、本格ミステリーとしての緻密さ……映画だけ観てまだ本を読んでいない方、映画も本もまだの方、まずは是非、この本をお読みになった方が良いです。

この本の最大のインパクトは、ミステリーとしての「密室状況」を○○○(ネタバレ)を使って生み出している点にあり、本格ミステリーを期待してこの本を手に取った読者は、まずその意外性、および、意外さだけに止まらない巧妙精緻さにド肝を抜かれ、「詳しくは言えないけど、まぁ凄いから読んでみてよ」という形で友人知人にオススメ、ミステリー界隈で『屍人荘』読者はまるで○○○のようにまたたくまに増えていった……という経緯があったように思います。「騙される事」「驚かされる事」に快感を感じるミステリー小説愛好家たちの間には「ネタバレ厳禁」「なんとなく察していても騙される事を楽しむ」という不文律・美学がありますから、この屍人荘○○○たちは歓びの雄叫びをあげながらさらなる○○○大増殖のムーブメントを楽しみました。

さてしかし、映画の場合はどうでしょう。

映画を観る人は、ミステリー、ホラー、コメディー、ヒューマンドラマ、アイドル映画……と、そもそも想定したジャンルの楽しみを求めて観る作品を選ぶでしょうから、「◻︎◻︎映画と思って観ていたら○○○が出てきた」「主人公だと思っていた推しが、途中で……」というのは「驚き」「快感」というよりも、残念ながら、「期待はずれ」という感想に決着してしまうのは仕方のない事でしょう。

しかし、だからといって、現在進行形のベストセラー小説のネタを「映画宣伝」で割ってしまう訳にはゆきません。これは非常にバランスの難しい問題で、制作・広報陣の苦慮と苦労は察して尚余るところですが、「コメディーっぽいムード」「人気俳優三人が主人公の(いわゆるアイドル映画的な)邦画」というベールに包んで乗り切ろうという最終判断は、やはり、戦略として相当見込みが甘かったように僕は思います。それらの要素を押し出すのも決して間違いではないのでもちろん良いのだけれど、「……という映画なんですが、実は、この映画の核心にはあなたの想像を上回る衝撃が待っています」「心臓の弱い方は、まずは劇場係員に内容を確認の上チケットをお求め下さい(ショック死した場合の保険を設定)」「この映画のネタバレは絶対にご遠慮下さい!」「決して一人では観ないで下さい!」……など、これは○○○映画でもあり、かつ、その驚きが物語の重要要素であることを、『サスペリア』(77)封切り時のようなセンセーショナルなアオリでもって伏線して置くことが、この映画の封切りには絶対必要な手当てだったように思います。

その広報次元の伏線が欠けてしまったことにより、ミステリー読書界では常識的な「ネタバレ厳禁」という意識なしに、映画ファンの間で○○○のネタバレが「ジャンル見込み違いの期待はずれ感」とともにダダ漏れに拡散してしまった──それは作品の本質とは別次元での手痛い失点だったように思います。

興行面の失点から話が始まってしまいましたが、では、映画本編についてはというと、まずこの映画……

剣崎比留子役の浜辺美波がとんでもなくかわいい。全シーン全画面、可愛さが暴力的なまでにかわいい。

そして

 葉村譲役、神木隆之介も彼自身のチャーミングさが自然体に活きていて、とてもかわいい。

映画の第一印象として、まずそれが「快」としてダイレクトに目から入ってくるので、観ていて飽きないし、とにかく楽しい。これは単純な事のようですが、ここまで魅力的な俳優をキャスティングし、ちゃんとした内容のある「ミステリー映画」のほぼ全シーンにおいてその魅力を余すことなく撮る、「画面として表現する」というのは、これは案外、非常に難しい事なのではないかと思います(それが上手に成功しているから、この映画には様々なパターン、様々なシーンを使用した《予告編》が大量に存在します。主人公たちが写っているほとんど全てのシーンが予告編に使えるレベルの「画」になっている──これは本当に凄い事なんじゃないでしょうか)。あまり観ないジャンルなので印象論にはなってしまいますが、ファンが推しを観る事が第一目的の、いわゆる「キラキラ映画」でも、ここまで主演俳優三人の良さと魅力を上映中、鑑賞中、ずっと感じ続けられるレベルの作品は、ちょっと他にないのではないでしょうか?

そして、役者の良さという点だけではなく、ミステリー映画としての構成も予想以上に良く出来ています。コメディー演出にいささか力が入り過ぎ、「せっかく原作の事件とトリックを丁寧・正確に映画化しているのに、ミステリー演出が相対的に弱くなってしまい、何が問題で、何が謎なのかがあまりよくわからなくなってしまっている」という印象は若干はあるものの、『屍人荘の殺人』という本格ミステリーの傑作をここまで原作準拠に映像化した事には感嘆を禁じ得ません。あるいはもしかすると、コメディー面の「悪ノリ感」を過剰に感じる人もいるかもしれませんが、僕には「もっと過剰に盛り盛りに攻めてくるのかと思いきや、案外サラリと、この映画独自のセンスと感じられるレベルまで程度良く抑えられている」と感じられ、この「ほど良い感じ」が、主人公たちの魅力を自然に見せる効果として、映画としての絶妙なバランスを形成し得ていたように思います。

「ミステリー」「コメディー」「役者の魅力」──それらの要素、それぞれの密度、充実感がかなり高いため、その細部に注視して見ると、逆に何がポイントなのか判りづらくなるという難点はあるかもしれませんが、しかし、いわゆる『ミステリー映画』として、この映画を「名作」足らしめているのは

ひとえに中村倫也──彼の魅力と存在感、演技、そして使い方──それが何より最大の功績だと、僕は断言して憚りません。

『屍人荘』を知らない人には少々ネタバレになりますが、中村倫也演ずる明智恭介は映画のなかばで一旦姿を隠します。印象としては、前半の主人公=中村倫也・神木隆之介、中盤=中村倫也・浜辺美波・神木隆之介、後半=神木隆之介・浜辺美波……という感じなので、中村倫也の姿をずっと見ていたかったファンの方には、もしかするとこの画面露出は物足りなく感じられてしまうかもしれません。

しかし、前半、中村倫也独特の「テノールではなくバリトン的な魅力」とでもいいましょうか、外面的には硬質なのに内面の軟質を仄かに感じさせる独自のパーソナリティーが、明智先輩という、葉村君にとって絶対的な魅力があって、尊敬の対象で、でも、自分が一緒にいてあげないと……と感じさせる「愛すべき名探偵」を彼自身の身の丈で余すことなく表現していて、それゆえに、ある意味原作以上に、「姿を消しても明智恭介(中村倫也)は物語の全編に存在し続けている」「この物語の真の主人公は明智恭介(中村倫也)」という説得力を映画にもたらしています。

これは中村倫也という俳優(そして明智恭介というキャラクター)の魅力・存在感をたっぷり堪能させるというだけにとどまらず、一見コメディーに振り切っているかのように見えるこの映画の根底に、市川崑の金田一耕助シリーズにみられるような「日本ミステリー映画、保守本流の美学」を加味することに大きな役割を果たしています。

その美学とは、映画本編の外側にある「より大きな悲劇」が発端となり、それが目に見えない力となって本編の事件、人々の生き死にを左右する──というような、いわばギリシア悲劇的、横溝正史的な「運命の恐ろしさ」の劇的表現です。ちょっと何を言っているかわからない(笑)かもしれませんが、つまり何を言いたいかというと、この映画の後半に起きる連続殺人事件は「一見コメディーに見える、ある推理シーン」によって既に明智恭介によって解決されており、しかも、その明智自身の行動によって「事件の種」は屍人荘の中に投入され、明智の予見通り事件は起こってしまう……。この部分の改変(犯人の設定変更と「ある推理シーン」の挿入)は、「ミステリー小説の傑作」を実に巧妙に「ミステリー映画の傑作」の型に書き換える事に成功していて、この「悲劇の構造」に気付けば、この映画は本当に「恐ろしい悲劇」だと感じる事ができます。基本進行がコメディー・ベースであるだけに、そこにはまた、何とも言えない独特なペーソスが漂います。

移動場面で唐突に挿入される『悪魔の手毬唄』おはん(東宝版)のパロディーは、作り手としては単にコメディーのつもりだったのかもしれませんが、この映画が実は「日本のミステリー映画、保守本流の美学」に則したものである事を暗喩的に象徴するシーンとして、僕には非常に意味深く感じられてなりませんでした。

そして、この映画の真の新しさ、素晴らしさは、その「日本のミステリー映画」における基本的様式美「悲劇の発端には大抵、か弱い女が存在していて、犯人も女性で、男性の名探偵によって事件は解決、犯人は悲しく自裁する」という王道的パターンの「発端の女」の役割を、男性の(しかも探偵役である)明智恭介(=中村倫也)が負い、犯人も原作通り罪ゆえに悲しく自裁するのではなく(○○○に襲われたため、人間の尊厳を守るため潔く自裁)、そして、最後には女探偵である比留子が「力」でもって運命に引導を渡す──つまり「強い男(探偵)」と「弱い女(犯人/事件の発端を作る存在)」という、このジャンル古来のジェンダーロールを見事にシフトチェンジ、アップデートした点にあった──と僕は思っています。

屍人荘最上階に追い詰められるクライマックス以降の流れ・段取りが原作とは大きく異なり、原作(明智先輩)ファンには結構ショッキングな幕切れになっていたのではないかと思いますが、上述のような意図のある改変だと僕は感じましたので、これはこれで大変良い決着のつけ方だと個人的には感じました。

比留子の最後の一撃は、古来ミステリー映画の中で悲しく虐げられたきた犯人・悲劇の女たちに成り代わっての、立派な男名探偵への復讐の一撃──そう感じてしまったのは、さすがに僕の過剰なリリシズムのせいかもしれませんが、とにかく、中村倫也(=明智恭介)がこの映画で果たした役割は、ミステリー映画史的にも特筆すべき魅力あるものであった事は、まず間違いのない事でしょう。

『屍人荘の殺人』公開中