通し狂言 三人吉三巴白浪

このところ、黙阿弥の言葉の美学・世界の広がりを感じさせる力をもたない「大川端」の見どりばかり見せられていたので(現在、大幹部以外でこの幕の見どりを成立させ得る役者はいない。そんなつまらない見取りを掛けるのはもうやめた方がいい)、久々の通しの三人吉三、詩美性とロジックで型作られたこのドラマチックな芝居を「物語」として観れること自体が嬉しい。「大川端」も通しの序幕と考えれば、そこまでのクオリティーを要求する気もなくなる。が、しかし、通しの場合も二幕夜鷹たちの「大川端パロディー」の一場の面白さを成立させるためには「自家パロディーの元ネタ」に足る出色の出来で序幕を見せなければならず、やはりこの「大川端」というのは特別な一幕である事に変わりはない。

さて今回はどうだろうか。松也お嬢は姿が良く、花道の出でハッとさせる力を持つ。が、黙阿弥の台詞で物語世界の冒頭を描ききる力は残念ながらまだ備わっていない。若さ、情熱といったものでこの役を乗り切るにはすでに器は大きくなり、しかし、黙阿弥の頽廃美を台詞・ロゴスによって表現し得るにはまだ成熟が足りない。彼はそんな成長の谷間の時期にあると見受けられる。これは恐らく時間によってクリアされゆく問題であろうと思うので、今後楽しみに拝見し続けてゆきたいと思う。

和尚の松緑はフレーズを細切れにして一本調子に語る個性が、美文の語りで世界を描くべきこの芝居に全く合っていない。「松緑的」といえばそれまでなのではあるが、しかし、とはいえ彼はこのままで良いのだろうか?と思ってしまう。たとえば先の團十郎さんも発声や台詞回しが独特で、ある意味何を演っても「團十郎的」ではあったのだが、あの人の和尚吉三はちゃんと黙阿弥劇『三人吉三』の和尚だった。團十郎と比べるのは酷かもしれないが(僕は特に團十郎ファンという訳ではなかったが)、このまま「ファンのための松緑」であり続けるのか「芝居のための松緑」に変貌するのか、それが今後この人の大きな課題の様に思う。

そして愛之助のお坊吉三。時によっては芝居を小さくまとめ、つまらなくしてしまう場合もあるこの人の生真面目さ、折り目正しさ──とでもいうべきものが今回は大きくプラスに働いた。愛之助の「真面目な」芝居、台詞回しが正確なピッチを生み、ベテラン歌六とともに心地良い芝居のリズムを作る。名調子の台詞自体というよりも、理想的なリズムで実演されてこそ浮かび上がってくる黙阿弥の美学、詩情の表現は今回この二人が抜群であった。

……ここまでを読み返してみると何だか不満の多い感想の様ではあるが、物語自体ドラマチック、最後には描写を浄瑠璃に預けて絵面で見せる火の見櫓の場の美しさなど、基本的には楽しくて満足度の高い観劇だった。これからはつまらない「大川端」のみの見取りはやめて、面白い芝居は面白い形で見せて欲しいものと切に願う。

二人静

先の鼓動との『幽玄』よりも、これこそ『幽玄』という演目名にした方が良かったのではなかろうか?

玉三郎と鼓動の『幽玄』を僕は心底高く評価しているが、あれは能の「幽玄」の美というよりも、古典芸能をベースとした新しいパフォーミングアート、自らの芸道・芸術を追求し続けてきた坂東玉三郎の一つの到達点として、世界レベルで評価されてしかるべき「真に新しい舞台」──とでもいうべきものだった様に感じる。

翻ってこの『二人静』、能を題材に玉三郎が作った「新作舞踊」という以上に、坂東玉三郎という役者・演出家・芸術家が、歌舞伎という手法を使って能の「幽玄」の境地の核心にまで迫り得た、「能以上に能」を表現し得た舞台であった様に一見物としては感じた。(こんな事を言うと能の専門家に叱られるかもしれないが、しかし、勿論それはあくまでも個人の体感・感動レベルの話であって、冷静に考えれば能以外に「能以上に能」などというものは存在しないのは当然の事だ)

歌舞伎らしく二人水干姿になるより前、摺箔風の衣装、まるで能面を着けているかの様な冷淡な直面。児太郎・菜摘女の背後にぴたりと付いて足を擦る前シテ、そして、長唄の語りにびたりと合わせて謡いながら現れる玉三郎は、見物に恐怖すら感じさせるほどの完璧なユニゾンによって、幽と現、過去と今、そして、現在劇界に君臨する役者と将来大成すべき役者、それぞれの間に隔たるものをひととき取り去って見せる。リアリズム、プラグマティズムの現実界では決して生じる事のない対立項の融合、時空概念の無化──舞台の上での出来事は僕の目にはその様に映り、それはまさに僕の思う「幽玄」の境地そのものだった。

こんなに怖い芝居を、僕は今まで観た事がないし、多分これから先観る事もまずないだろう。