菅原伝授手習鑑

加茂堤

前月歌舞伎座を観そびれたので久々の歌舞伎座での勘九郎。「いだてん」のブランクで雰囲気が変わってしまっているかな……と僅かに心配していたが、それは全くの杞憂、むしろ以前に増して「歌舞伎役者」としての面構えというか、雰囲気というか、そういったものが深まっているように強く感じられ、これは大変嬉しかった。歌舞伎役者としての努力(それがいかなるものかは判らないが)を陰で地道に続けていたのか、あるいはいかなる経験も役者にとってはプラスになるものなのか、その実のところは判らないけれど、この人は今年、きっとより一層大きな変貌を遂げるだろう。

孝太郎の八重は役よりも少し重く、いささか年増じみて見えなくもないが、良く言うならば追善の舞台に相応しい重厚感と貫禄。勘九郎と共にこの幕を充分見応えのある一幕にする事に貢献していた。米吉・斎世親王、千之助・苅屋姫は「配役逆だよね」感は否めず、経験浅い千之助の女形は「まだまだ硬い」と言わざるを得ないが、誰しもはじめの一歩というのはあるものなのだから、父上のみならず様々なタイプの名女形が集う今月の舞台、良い勉強の月として是非成長して欲しい。

筆法伝授

五年前、十年前、十八年前の仁左衛門のこの半通しと比べて、今回の筆法伝授と道明寺は「仁左衛門(孝夫)の芝居」という感じが最早ほとんど感じられないものだった。さりとて「天神様」というものでもない。

そもそもこの芝居の特殊性というのは前提にあるのだけれど、とはいえ、前回まではやはり「最高にかっこいい役者・仁左衛門(孝夫)が我を抑えて菅丞相を身に下ろす姿もまた、最高にかっこいい」という印象は少しは残っていた記憶があって、道明寺の木造の丞相などは、むしろ十年前の方が「木造の化身らしい巧妙な動き。見事に演じていた」という感動があったと記憶している。

しかし今回、いつもの「かっこいい仁左衛門」の気配は舞台の上、本当に微塵も残っておらず、片岡孝夫という役者個人の魅力ではなくて、今回追善の十三代目さんの記憶を通じて、しかし、その十三代目さんよりも更に抽象的な次元にある「仁左衛門」という歴史、時の流れ、概念をはっきりと現出し得ていた様に感じた。たとえば「そこにいたのは仁左衛門でなく天神様だった」という様な紋切り型の感想は今回に限っては全く見当違いで(私見)、今月舞台の上にいたのは菅丞相でも天神様でも片岡孝夫でもなく、まさに「片岡仁左衛門」だった。

長年客席からぼんやりと舞台を眺めていると、ごくまれに、作品、演者を通して「永遠」「時間」なるものの形象に直面する心地を感じる時がある。今月の「仁左衛門」はまさにそれだった。

梅玉、時蔵、秀太郎、秀調、橘太郎、橘三郎……共演者も皆、仁左衛門と共に悪い意味での「個の目立ち」が一切なく、渋みのある芝居が大変素晴らしかった。この舞台に登板できた莟玉は本当に果報者。橋之助の梅王丸も大きく一皮むけた印象。

道明寺

先に書いたような「孝夫個人ではなく仁左衛門」の境地という、いわば抽象的、形而上的な領域に踏み込んだ芝居を、今回地上の芝居として舞台に繋ぎ止めていたのは、この幕、覚寿の玉三郎だったろう。歌舞伎、仁左衛門という歴史レベルの大きな時の流れとは別に、孝玉、仁左玉というこの二人の名コンビが積み重ねた時間。現時点でのその一つの到達点として、この道明寺は十三代目追善興行であるとともに確かに仁左玉の芝居であるという実感があった。菅原伝授「菅丞相」半通しの神妙さ、丸本的な奇天烈さ──といういつもの感じのみならず、襲名、顔見世、正月芝居にも似た、そんな豪華さがこの道明寺にはあった。

初々しくも華やいだ加茂堤、渋く引き締まった筆法伝授、神々しくも華やかな道明寺。これはとても理想的なリズム・構成の半通しだった。良いものを観た。