八陣守護城

まず、進之介がとても上手くなっていた。変な言い方かもしれないが、以前を知る方ならこの感想は解って下さるのではないか。悪く言うつもりではなくて、本来松嶋屋の御曹司の彼がその名の如く前進してくれる事は、上方歌舞伎ファンとしてとにかく嬉しい。遅いという事は少しもない、是非今月の感覚を忘れずに進み続けて欲しい。

そして我當。僕は誰のファンという事はなく、歌舞伎、そして上方の風情が好きで芝居を観続けてきたのだけれど、もし誰が好きかと問われれば必ずこの人と答える程に、長らくこの人が大好きだった(もちろん今も)。体の不自由をおして長時間舞台に立った今回の一幕、以前を知らない方には「老境の名人の努力」「生命の美しさ」「役者の矜恃」といった感動が先に立つものだったかもしれないが、しかし、この人の大袈裟ではない大きさ、隠してもなおこぼれるような温かさ、底の計り知れない情の深さ……そういった魅力を知って以前から心寄せていた者としては、その体の不自由をおしての奮闘の奥に、見えづらくなりこそすれ、確かにその芸が生きている事が何よりも嬉しい感動だった。

今回はたまたま最前列下手寄りの席で、幕切れの水面を見下ろす我當の視線を真っ直ぐに受け留められた事は、僕にとっての一生の思い出となった。

羽衣

玉三郎の天女はとにかく超然としていて、三味線が華やかな音を奏でようとも、自身鞨鼓を叩こうとも、歌舞伎的・動的表現とは一線を画した、まるで能のような静謐の気配を発し続ける。いつもながらの見事な境地。その様子、鳥の尾の摺箔の羽衣姿、まるで天部の楽人、迦陵頻伽のよう。なんだか御利益(?)さえありそうな神秘の情景。

そして勘九郎の伯竜。驚くほど品があって格調高い。伯竜と天女の「差」をもって天女を高く見せるのではなく、伯竜も同じく高く在る事によって、玉三郎の天女がより一層の高みに達する。これは大変理想的な「羽衣」の型だと思った。

客席を見下ろすように俯き加減で花道を去る天女の姿に、まるで本当に天に飛び去って行くかのような錯覚。

人情噺文七元結

菊五郎の長兵衛はこの人物の個人的な資質として「良い人間」というレベルではなく、この劇中の江戸そのものが「良い世界」であるかのような、何とも大きな温かみを感じさせる。それは恐らく長兵衛が主役として突出するのではなく、雀右衛門の女房、時蔵の角海老、團蔵、亀蔵、左團次、梅玉……渋みのある名優たちとの呼吸、芝居の遣り取りが心地良くぴたりと収まり、まるで噺家の名人が一人で語る人情噺でもあるかのような、そんな落ち着いた空気が始終流れ続けていた事が理由であったように思う。明るく楽しく、しかし、しみじみとした大変良い芝居だった。

梅枝の文七も狂言名題の役に足るしっかりとした芯があった。そして莟玉。彼は最近本当に良い役に恵まれていて、ここしばらく続いている様々な役のバリエーションはある意味、大々的な襲名興行以上に毎月毎月彼の新たな魅力を引き出し続け、そして彼自身の成長にも大きく役立っているように見受けられる。今回の長兵衛娘も、角海老での素面の娘にまた新しい魅力の側面が浮かび、たとえば今後、「ふるあめりか」の亀遊、あるいは新派系の役の可能性をも感じさせる展望が見える。楽しみと言う他ない。

道行故郷の初雪

一幕前「文七元結」では江戸の鳶頭、この幕では忠兵衛、空気感をガラリと変える梅玉は本当に芝居が上手い。しかし、その上手さ以上、芝居の巧拙という次元を越えた秀太郎・梅川の「身に纏う風情」が本当に見事な一幕だった。特に何をするという事もなく、立ち姿で少しの所作、縁台に座って万才を聴き、そして遠く孫右衛門の姿を眺める──そんな短い一幕のうち、総ての瞬間、総ての動作に非常に奥行き深いドラマが見える。松嶋屋三兄弟全員に言えることだが、この人たちは芝居の役を演じているのではなく、存在自体が芝居そのもの……そんな感すらある。

秀太郎が演じる上方の女の姿は最早役者が演じる役ではなく、恐らく僕の祖母ぐらいの世代迄で完全に絶えてしまった(しかし確かに存在した)古いタイプの上方の女、北野恒富、上方画壇の画家たちが描き留めたその一瞬の表情──そういった失われた時の記憶を「生身の記憶」として、現在唯一この世に残すものと言ってまず間違いはないだろう。これを「芸」と言うならば、これほど上方的、女形的、歌舞伎的な芸はそうそう他にあるものではなかろう。

しかし、この芸はまさに消滅の危機に瀕している。秀太郎の芸を写し、引き継ぎ、芝居に掛ける役者がいない。そしてそもそも、秀太郎が老け役ばかりを演じ、この素晴らしい上方の女形芸を見物に披露し、後進に見せる機会が極端に少ない。

高齢の大名人であるにも関わらず、こんなにも可憐で、いじらしく、そして情緒深くて美しい梅川を、僕は今まで観た事がない。高齢=老け役という常識的な考えはこの世界には当てはまらない。現在と未来、女形芸の豊かさを真面目に考えるなら、秀太郎の配役方針は一刻も早く見直すべきだろう。