僕は横溝正史とアガサ・クリスティーが自分の創作の原点にある──と自認しているミステリー小説書きなのであるが、『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』『獄門島』『鬼火』……数多愛する横溝の傑作群の中でも、こと『八つ墓村』に関して、ひとたび語り出せばなかなか面倒な奴になってしまう。というのは……

  1. 横溝作品で『八つ墓村』が一番好き。
  2. 何故好きなのかというと、『八つ墓村』は「ミステリー」「伝奇」「冒険」様々なジャンル小説の要素が分かち難く融合していて、結果、全て文学の原点たる『ギリシャ悲劇』=「避け難い運命に人間が翻弄される悲劇」の構造を現代の物語として見事に再現し得ている。(自分が目指す文学の理想像)
  3. しかし残念ながら、そんな (単なるミステリー・ホラー・ジュヴナイル、いずれでもない) 『悲劇』の核心に迫った大傑作『八つ墓村』の魅力を正しく表現した映像化作品が、自分の知る限り今まで一つも作られていない。
  4. そして、各映像作品へのダメ出し……

これが『八つ墓村』について語り始めた時の、大体のお定まりの流れ。

しかし、ここで『八つ墓村』論を長々やっても仕方ないので、『八つ墓村』を劇化するにあたって僕が重要と思うポイントを(具体的な次元で)八点抽出してみたいと思う。

  1. 避け難い「運命」のメタファーである『二択殺人』のトリック要素を省かない事。(ミステリーとして最重要の肝)
  2. 落武者殺し、三十二人殺し、現代の事件──すべては一連の壮大な因果律の内の出来事として表現する事。
  3. 「鬼首村」の様な単なる田舎の寒村として「八つ墓村」を解釈しない事。(室町時代から歴史の因縁を受け継ぐ八つ墓村は、ギリシャ悲劇に喩えるなら神々の末裔・アトレウス家、アガメムノンの館に等しい厳粛な運命の場所)
  4. 「犬神家」どころではないレベルで「多治見家」を格調高く豊かに表現する事。(旧家多治見家と比べれば犬神家はたかが一代の成金。重みが違う)
  5. 森美也子は「運命」の代理人であり、かつ、自らも「運命」に縛られた悲劇の象徴的存在。望み得る極上級の美女を配役する事。
  6. 犯行動機や事件の結末を「解り易い理屈」で安直にまとめてしまわない事。(これは重層的な因縁と因果のドラマであって、単なる犯罪の物語でも、ホラーでもない)
  7. 自らの欲によって人々が自滅する運命の皮肉のドラマ (破傷風と落盤) を省かない事。
  8. 人間が運命と因縁から逃れられる僅かな可能性──辰弥と典子の未来に希望を残す事。

……という八つの要素。それぞれは実現していても、すべてを満たす映像作品は残念ながら一つもない。

『八つ墓村』はそのそれぞれ要素の「分かち難い結合」が見事かつ面白い作品なので、いずれかの部分にフォーカスしてアレンジしてしまうと、作品自体が持つ壮大な魅力が霧散してしまう──そんな、完璧に構築された『悲劇』だと僕は思っている。

前置きが長くなってしまったが、さて、今回新派の『八つ墓村』

格調高く悲劇を描く「新派」の方法論と横溝ミステリーは親和性が高く、また、前回の『犬神家の一族』が大変素晴らしかったので大いに期待はしていたものの、上述の様に『八つ墓村』は他のミステリー作品とはちょっと違う難しい作なので(僕が難しく考えているだけかもしれないが)、大いに期待するとともに、いささかの不安もあっての観劇となった。

結論から言えば、格調高く悲劇を描く新派の方法論はやはり横溝の魅力を表現するに相応しく、予想通り、『八つ墓村』を描くに必要な土台の部分(上記で言うなら1〜5の要素)の表現は文句なしに盤石。素晴らしかった。定型的方法論を確立した劇団俳優ならではの表現と所作で 「八つ墓村」と「多治見家」の歴史の深さ、格の高さ、尊大さ、差別意識……そいうった諸々の要素は余すことなく十全に表現されている。雪之丞の森美也子も新派女方という劇界における独特な立ち位置、そして雪之丞自身のある種磊落な魅力が美也子の女傑気質にピタリと嵌る。

しかし八つ墓様の祟りなのか、例に漏れず今回も僕の望む八つの要素、すべてをストレートに楽しませてはくれない。

今回は上記6〜8の要素が(脚本の主題として意図的に)変更されていて、齋藤雅文氏のやりたい事、主張は解らなくもないのだが、これではせっかくの新派向き「運命の悲劇」を一般的な社会派ドラマに矮小化するばかりで、緑郎要蔵と神楽による『八つ墓村』史上最高に美しい「落武者殺しと三十二人殺しの因縁」の表現、八重子・久里子の小竹・小梅と緑郎要蔵の鍾乳洞でのエモーショナルなドラマ──劇的に壮大に膨らんだドラマが最後、完全に着地点を失って宙をさまよってしまっている。

「今なお(むしろ今現在)日本を覆うムラ社会的なるものへの批判」という演劇的主題・主張を汲むとしても、ならば、ではどうして辰弥と典子は嬉々として村に残る事を選択しているのか?……そこまで含めた現代批判、ブラックユーモアと解釈するのは、やはり流石に無理があるように思う。

無理な相談なのは百も承知しているが、もし可能であるなら大阪公演ではそのあたり、整理して再考してもらえればより優れた舞台になると思うのだが……さて、いかがなものだろうか。