メトロポリタンオペラの映像ソフトとしても観る事が出来るこのロバート・カーセンの演出プロダクションは、全編をオネーギンの回想と位置づけ、シンプルなセットながらもこの恋愛心理劇の核心を見事に射抜いた本オペラ演出の決定版──と評して過言ではないと思う。この演出を一度観てしまうと、ラーリン家のセットを舞台に組まれれば大時代的な古典演出に見えてしまい、かといってモダン・スタイリッシュな演出が施されれば、それは鼻につくほど饒舌に感じられてしまう……。それほどこの演出は簡にして要を得ていて、このプロダクションを採用した時点で、今回の公演はほとんど成功したも同じ。問題は何もない──はずだったのだが……。一筋縄にそうはいかないところが、舞台公演という「生もの」の面白い所だ。

当初オネーギンを勤めるはずだったマリウシュ・クヴィエチェンが怪我のために降板、レヴァント・バキルチに交代となっていたところ、バキルチの体調不良で初日前日、急遽大西宇宙の初日代役になる(結果、三公演中初日と最終日、二公演が大西宇宙のオネーギンとなった)というアクシデント。そして初日の上演中、一幕二場『手紙の場』直前でピットと客席の停電によって公演が一時中断というトラブル(ブレーカーが落ちたことによる単純なトラブルで、20分程度の休憩を挟んで二場の最初から再開となった)。

停電トラブルはそのせいで終演時間が押し、バスで宿に帰ることが出来なくなってタクシーを使う被害(と言うのは大袈裟だが)を受けてしまったが、大西宇宙の代役に関しては、バキルチと比較した訳ではないので正確な事は言えないが、たとえ周到な用心としてのアンダーカバー契約があった事ではあろうものの、前日に決まった代役とは思えない堂々とした歌唱と存在感、非スラブ系の他歌手陣と比べて遜色のない、否、かなりハイレベルなロシア語のディクション(ロシア語はさっぱりわからないので、あくまでも今まで聴いてきたこのオペラとの比較の上での判断だが)──バキルチの不運を思うと手放しには喜べないが、これはアクシデントが吉と出た、後々伝説となる大西宇宙の日本オペラ公演デビュー、古来より相場のスター誕生=「代役での成功」の瞬間に立ち会えたような気がしなくもない。

歌手陣では上記大西宇宙のほか、タチアーナのアンナ・ネチャーエヴァ、グレーミン公爵のアレクサンダー・ヴィノグラドフが素晴らしかった。

ネチャーエヴァは田舎の少女時代、手紙の場では繊細と内向に徹し、朗々と自身たっぷりに名曲を聴かせるのではなく、あくまで抑制的ながらも、壮大なオケと絶妙に渡り合うバランスでタチアーナの心理を描く。ここまでの段階では、線の細い可憐な声質の歌手なのかな?と思いきや、サンクトペテルブルクで公爵夫人として登場してからの堂々とした存在感、圧倒的劇的な心理表現……前半後半で様々なものが反転するこのプーシキンの傑作文学を元にしたオペラを歌唱のみならず解釈(インテリジェンス)で見事に表現しきっていたと感じた。

そしてグレーミンのヴィノグラドフ。僕は今までこのグレーミン公爵という役を「訳知り顔の老人が唐突に出て来て教訓めいた事を朗々と歌って大絶賛を受ける」、いわばオペラの流れを中断させるベテラン・バスの特別出演「儲け役」のように感じてきたのだが、ヴィノグラドフの、まるでオネーギンに寄り添うかのようなジェントルな歌語り、そして公爵を中心に逆位置に立ち尽くすオネーギンとタチアーナという演出(ズームアップの映像では解らなかったライブならではの俯瞰的な眺め)によって、公爵が歌う内容は公爵自身の経験談という事のみにとどまらず、あるいはオネーギンとタチアーナが辿ったかもしれない「あり得たかもしれない幸福な未来」の様に感じられ、この悲恋のオペラが今まで以上の切なさをもって胸に迫った。

サイトウキネンのオケはこのオペラに望まれる哀愁と繊細さを十分に含み、合唱も良い。ファビオ・ルイージの指揮は単曲で振り慣れているのか(どうかは知らないが)、ワルツとポロネーズにいささか自信満々の力が入り過ぎて暴走気味、逆に第三幕のバレエが異常なまでにもっさりとしてキレがない。その点だけが気になった。


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