言葉で語ることが不可能な映画。まるで『宇宙人の画家』が描く光のキャンバスのような




 少ない予算ながらも脚本や演出の工夫が上出来で、クチコミでじわじわ上映が拡大してゆく──昨今、そんなインディペンデント系映画のヒット作が定期的に生まれ、マニアックな映画ファンたちは「次に語れる映画」探しに日々勤しんでいる。マンガ原作、テレビシリーズの劇場版……興行的に安全、かつ解り易いロードショー映画ばかりが目立つようになってしまった本邦の映画界において、そんなトレジャー・ハンティングは古風な映画ファンたちが新作のため劇場に足を運ぶ、今や残された数少ない動機・希望なのかもしれない。

戦闘機に囲まれた巨大な慈母観音像、合掌する白衣の老人、特攻服の男たち、ラッパー、少女、そして、大映超大作歴史映画『釈迦』に似た古風な字体で書かれた不思議なタイトル──『宇宙人の画家』

2021年12月3日 池袋新文芸坐0号上映時宣伝ビジュアル

この映画の宣伝ビジュアルを一目見たなら、マニアックな映画ファンの食指はきっと動くに違いない。けれどしかし、もしあなたが「次に語るべき映画」を見つけ、クチコミヒットのお祭り騒ぎに参加したいと思っているなら、この映画に飛び付くのは少し待った方がいい。ビジュアルのインパクトに呑まれず、まずは予告編の動画を冷静に観て欲しい。



いわゆる「気の利いたインディペンデント映画」の予告編は大抵、安定した一定のテンション・テイストのシーンが連続し、予告編それ自体で統一感あるストーリーを見せるタイプのものが多い。まぁ、普通に考えて予告編とはそういうものだろう。

しかし、この映画の予告編に編集されたシーンはカメラワーク、俳優たちの演技のテンション、すべてがまったく一定でなく、内容も銃撃戦やラップ、老人の語り、白黒で撮られた少年少女たち……筋の通ったストーリーはまったくそこには見えてこない。

唯一予告編を貫いているのは「様々な手法で撮られたシーンすべての画角・色彩設計が見事なまでに美しい」という画面の(驚異的な)共通点のみ。これは今流行りのインディペンデント映画とは全く違う匂いがする。予告編全シーン(後に判ることなのだが、驚くことに本編のほぼ全シーン)すべての画面設計がこれほど美しい映画は近年珍しく、これは「気の利いたインディペンデント映画」どころではない、「映画の表現を突き詰めた種類の映画」なのでは?──と僕は直感した。(これは0号上映時の予告編の感想なので、現在の予告編の内容とは少しズレています)

 東京で一日限り上映された「0号上映」に僕は足を運んでみた。観に行って良かった。これは小説でもマンガでもなく、絶対に映画でしか表現され得ない、そして、テレビやスマホの画面ではなく、映画館の白いスクリーンに投射された光──つまり『映画』として観なければ決して魅力が伝わらない、映画史の最前衛に位置するといって過言でない、とにかく凄い映画だったのである。



ただしこの映画、語ることが非常に難しい。いや、不可能と言っていいだろう。


こと映像美の次元においては、現在世界的に最も高く評価されている映画監督の一人、アピチャッポン・ウィーラセタクンの抒情性に比肩するレベルであると僕は断言するし、映画に対する前衛的・進取的な向き合い方の潔さは『アンダルシアの犬』ルイス・ブニュエル、『去年マリエンバートで』アラン・レネ、『インディアソング』マルグリット・デュラスら、過去最前衛であった巨匠たちの後に連なる高みに達していると僕は絶賛して憚らない。そして、先にも少し言及したように、演者たちの演技のテンションの違い──それぞれレイヤーの異なる演技や台詞回しが生み出す「不協の協」のバランスが絶妙で、とりわけ白黒パートの少年少女たちの「一体どんな演出をつければ、素人の子どもたちにこれほど個性が立った芝居をさせることが出来るのか?」と首をひねるばかりの表現は、白黒映像の「マンガのコマ」のような効果と相まって、一種悪夢的な、まるで「真夜中に途中から観て結局何だかよく解らなかったけれど、何故か妙に心に引っ掛かり続けている深夜映画」(?)のような不思議な余韻を心に残す。(どうしても気になって保谷監督に尋ねてみたところ、少年少女たちの素の魅力を活かすため特に彼らに演技指導はしていないとのこと。それでいてここまで個性の輝きで映像美に貢献するのだから、なんとも「恐るべき子どもたち」だ)

だがしかし、この映画を見て体感した、そういった直接的な感覚・感想以外のことを何かしら語ろうとすれば、話者はたちまちにして「語るに落ちる」言葉の罠の内に捉えられてしまう。

たとえば、映画の中心に据えられたダルマ光に何らかの象徴性を見出そうとしたり、大迫茂生とシソンヌじろう演じるイチロージロー兄弟、兄が頻繁に口にする大日本帝国という言葉や弟の無知に政治的なメッセージやメタファーを見出だそうとしたり、カラーパートと白黒パートの関連を分析しようとしたり……語る対象一側面だけに光を当てて分析的に評論しようとすれば、この映画は映画全体としての光のバランスを崩し、光が生み出す芸術──『映画』としての魅力を瞬時にして失ってしまうのだ。

そもそも土台となるストーリーにしても、一般的な映画の次元で考えれば「いじめを受けている少年(白黒パート)が描くマンガの中の物語(カラーパート)」と素直に解釈することは可能だろう。しかし実際に映画を観た印象としては、一概にそうとは断言できない感じもある。「末法的世界(カラーパート)の人間が妄想するマンガ的世界(白黒パート)」という解釈の可能性も無きにもし非ずであるし(少年少女たちの世界の方がモノクロームのマンガ的な感じがしなくもない)、あるいは、冒頭に登場するカップルのどちらかが末期に見た走馬灯的な「イメージの膨らみ」なのかもしれない。マルヤマという存在を介して「まるで関連しているかのように」表現されただけの、それぞれ全く別の次元・別宇宙の物語を描いたSF……という可能性もある。つまり、この映画は何とでも解釈ができる、正しい解釈が存在しないタイプの映画なのだ。

しかし、それは決して映画作家の無責任・怠惰という訳ではない。映画ファンの直観的な想像力を「まだ捨てたものではない」と信頼し、かつ、試す、作り手から観客への挑戦なのであると僕は思う。(劇中の言葉で言えば「ダルマ光の照射」なのだ)

映画それ自体の文法以外で語ることが不可能──それは映画で作品を表現する本質的な必然性だ。だから人類は映画を撮り、観続けてきたのだ。言葉で語れる次元の作品であるなら、わざわざ映画を撮らずに言葉で語ればよいのだ。

解りやすさ重視のロードショー映画、作り手の「語り」のために撮られたインディペンデント映画……それら「映画としての映画」という本質的地点から遠く離れてしまった昨今の映画、そして、映画を「語るために観る」映画ファンに対する、この映画は手厳しい異議申し立ての『映画』なのであると僕は思う。

今や宇宙人にも等しい稀少人種──アーティストとしての映画作家、保谷聖耀監督が白いスクリーンに描いた、これは光の絵なのである。

そんな風に、僕はこの映画を観た。




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