ブレヒトを現在上演する意義は深い。しかし、そこには種々困難な問題がある。

劇中で比喩し、観客に問題提起している諸問題が今や過去のものとなり、何を話題にしているのかがわかりにくいという事(問題の核心は普遍的なものではあれども)、劇中会話に一種独特な冗長さがあるという事、そして、それゆえに下手な演出をすると目も当てられないほど古臭い、時代遅れの失敗演劇になる恐れが高いという事。

今回の演出白井晃と主演草彅剛は、それらの困難を絶妙な匙加減で見事にクリアしている。

劇自体はシカゴのギャング、アルトゥロ・ウイとその一味の物語として進行するが、それは明らかにヒトラー、レームたちナチスの台頭の暗喩であり、シカゴの八百屋組合に仮託して描かれるのは国会議事堂放火事件、突撃隊の粛清「長いナイフの夜」、オーストリア併合などといったドイツの悲劇の序章の物語である。

このファシズム台頭の過去に直接的に大きな傷を負い、まだ記憶が新しかった当時の観客には、誰が観てもナチス台頭初期の諸事件の比喩と解るため、この芝居自体は何の説明もなくシカゴのギャングの物語として淡々と進行してゆく。なので、これを今普通に上演すれば、「これはシカゴのギャングに譬えてナチスの台頭を描いた芝居なんですよ」という前提を聞かされ、それを予め理解していたとしても、目の前で演じられている芝居がどんな実際の歴史を語っているのか、それぞれの事件がどのようにナチスの台頭につながっていくのか、具体的にイメージするのは非常に困難である。あるいは単にシカゴのギャングの話として観れば、正直この芝居は全く面白くない。

今回の演出では折々紗幕を下ろし、ヒトラーやレーム、ヒンデンブルクといった実際の人物の名前と事件の説明文を投射し、難解な比喩の問題を上手にクリアしている。個人的に、芝居に説明的な文字情報を加えるのはあまり好みの演出ではないが、これは説明的、冗長、断片的に進行する嫌いのあるブレヒトの戯曲の上演に対して整合性があり、かつ極めてスマートな手法で、現代にブレヒトを上演する難しさに対し真正面からカウンターを食らわせるかのような潔さとインテリジェンスを感じさせる。この解決策の選択は非常に良い。

会話劇部分の冗長さに対し、その合間合間にグルービーに演奏されるオーサカ=モノレールの音楽、主役・草彅剛の客席を圧倒し、巻き込み、呑み込む、切れ味鋭いダンス──ブレヒトのロゴスの劇とは対蹠的な「ノリ」に拠った演劇が、ブレヒト劇らしい頽廃を強烈に表現し、「ロゴス」と「ノリ」のバランスを絶妙な形で上演することに成功している。

ブレヒトの現代上演は問題提起劇的なロゴスに偏重すれば限りなくつまらなくなるし、ブレヒト的なムード、頽廃のファナティックに偏重すれば皮肉なことに限りなくダサくなってしまう。今回はそのバランスが望みうる限り理想的で、叙事的かつ抒情的、つまらなくもないしダサくもない、おそらく世界水準で最前衛のブレヒト上演を実現していたのではなかろうか。

そしてその白井晃演出、ブレヒトの戯曲の高度な要請を独占的に実現、実演したのは、ひとえに草彅剛自身が持つ「得体の知れない」ムード、解り易いようでいて実は底知れない、彼の役者としての存在感に他ならない。

『青天を衝け』の徳川慶喜も、彼が身に纏う「得体の知れなさ」が最後の将軍の苦悩や苦慮に見事嵌った素晴らしい芝居を見せたが、今回の舞台でも草彅剛のそういったキャラクターがブレヒト劇の主人公の不気味な深淵、不条理性、そしてそこに垣間見える人間性──といった要素を見事に実演し、「存在感」という意味においてこの役を完璧に具現化していた。

上手い役者、個性的な役者、踊れる役者……それは他にも大勢いるだろう。しかし、このアルトゥロ・ウイは草彅剛がいなければ絶対に実演不可能だったであろうことは、まず間違いのない事だろう。