あべのハルカス下近鉄百貨店、近鉄アート館。三面囲みフォーメーションの出舞台と定式幕が開閉される背後の本舞台、大道具小道具は必要最小限。言葉にすると、それは小劇場的、実験的試みに拠って立つ、近年盛んな「演劇的歌舞伎」の一種の様に聞こえるかもしれないが全くそうではない。

簡素化した道具による象徴表現、アーティスティックな要素の強い演劇が掛かる個性ある劇場……そういった要素においては、この舞台、近年のコクーン歌舞伎のスタイルに近いとも言える。しかし、コクーンが(何故か)「演劇」の方向ばかりを目指し「歌舞伎らしさ」からどんどん遠ざかってゆくのと対蹠的に、この晴の会、様々な要素を削ぎ落としながらも、まるで「歌舞伎の真髄」(と言うと流石に大袈裟かもしれないが)に肉薄するかの様な「歌舞伎らしさ」が全てにおいて優先され、これはある意味、大劇場の大歌舞伎以上に「歌舞伎そのもの」を堪能できる貴重な公演として、そして、そういった「歌舞伎」を確かに受け継ぎ、繋いでゆく「上方の精神の土台」として、その存在意義はお弟子・若手の「勉強会」「研究会」という次元にとどまるものでなはいレベルに達している。

端正で真摯な歌舞伎を愛する者にとって、この会は年に一度の大きな楽しみ、清涼この上ないオアシスとなりつつある。

さて今回の『肥後駒下駄』。昨年まではなかった竹本が付き、本格的な立ち回り、爽やかな幕切れの踊り……と、昨年のやや趣向味の強い創意工夫から、より一層本格的な正統派の芝居が目指されていて、会自体の進歩、成長も明確に実感される。この正統派、王道の芝居が十三世仁左衛門が主演の当時、「誰でもわかる楽しい歌舞伎」と銘打たれて中座で掛かっていたというのだから、やはり、現代流の新しさの追求や演劇的手法への過度な歩み寄り以上に、こういった本流の芝居の方が歌舞伎としてわかり易く、よりシンプルに見物の心を動かすものなのかもしれない──などとしみじみと思った(新たな試み・チャレンジももちろん素晴らしいが)。

演出面はおおむね満足ではあったが、だんまりの後に暗転するのはあまり感心しない。だんまりは暗闇の中の所作という約束事なのだから、その最後はやはりチョンと黒幕切って景色全体を見せないと絵として落ち着かない。だんまりの後に暗転して舞台を本当に真っ暗にしてしまうと、理屈上、だんまりの暗闇は暗闇ではなくなってしまう。(こんな事はべつにどうでもよい些細な事ではあるのだが、「歌舞伎」である事をとても大切にしている公演と感じるからこそ、ついこんな風にややこしく考えてしまう)

しかし、その暗転の後に続く「藤棚の立ち回り」。この場面は本水や特殊効果を使った最近の大劇場の豪華な立ち回り以上に、近年ベスト級にスリリングで美しく、楽しく、今回一番、満足この上ない名場面だった。この立ち回りに象徴される様に、外的な効果や装置に頼るのではなく、あくまでも役者自身(そして役者同士の)「歌舞伎の仕方」を芯にして最初から最後まで演じられるからこそ、この会には他の公演とは一線を画した深い感動がある。

千次郎は小柄ながらも立ち回りの身ごなし、形を決める折のメリハリが心地良く、体躯以上の大きさを舞台の上で感じさせる。そして、決まった瞬間にグッと役に入り込む集中力が抜群に素晴らしい。

松十郎は前回に引き続き古風な色悪の佇まいが美しい。その上今回はもう一役、清廉な武士の風格が実に大きく堂々としていて、この人は仁木弾正に映えるだろうな──などと思い、悠然とした身ごなしに惚れ惚れと見入った。

千壽は二役のうち年増の役に重々しい風格があり良かった。

来年も楽しみにしている。


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