初めて観た新海作品『君の名は。』が全くダメで、「評判の新海誠ってこんな人なの?」と、確認のために遡って観てみた過去作品がことごとく合わず、今回の『天気の子』がまたダメだったらこの人の映画を観るのはこれで最後にしよう──と思って映画館に出掛けた(だったら観なきゃいいのにとも思うけど、やっぱり、食わず嫌いで「新海誠は合わない」と決めつけるのは良くないと思い……)。

しかし今回、スルーしなくて本当に良かった。この映画、新海誠以外には描けない「男(少年)心の壮大なドラマチック表現」の大傑作として、 僕はジブリ以後の長編劇場アニメのチャンピオンと勝手に認定、惜しみのない大絶賛を送りたいと思う。感動の身震いが隣の席に振動として伝わる心配のない「プレミアムシート」的な席を買って(そんな心配をするぐらい、最初から最後まで映画の美しさと少年の想いの詩情に心震え続けた)、あと何度か劇場に観に行こうと思っている。

この映画、「万人向けの冒険ファンタジー」でも「切ないラブストーリー」でも「壮大な少年の成長譚」でもなく、只々一人の少年の狭い世界と恋情に徹底的にフォーカスした、潔いまでの「主人公の内的世界がすべての物語」だと言える。

今になって思い返せば、新海誠という人の作品には少なからずそういった傾向があり、最初からそれを「良し」「好き」と思って作品世界にのめり込んでいれば、こんなにも「新海誠が合わない」人にはならずに済んでいたのかもしれない。が、最初に観たのが『君の名は。』だったのが良くなかった。徹底的・圧倒的な物量宣伝キャンペーンで、あたかも「劇場版長編アニメの新潮流」「感動巨編の大傑作」という様なイメージが先行して作られ、レビューサイトには「誰もが感動するはず!」と洗脳するかの様な(ステマなの?と疑ってしまうほど紋切り型で書き手の心の見えない)同調圧力まがいの大絶賛レビューの嵐……。

確かに僕も、冒頭数十分程度は「これは震災以後の『失われたものの、もしかしたらあり得たかもしれない命と愛の物語』を描いた大傑作になるのかもしれない……」という予感をもって美しい画面に心震わせたていが、話が進めば進むほど、「なんでこの二人は入れ替わった相手の事をこんなに好きになっているんだろう? (入れ替わった時に出会った人、たとえば三葉ちゃんがバイト先の先輩お姉さんを好きになるとかなら解るが) 」という疑問、そう感じ出してしまうと「そもそもなんで入れ替わっているのか」「二人はこの事態をどうしてこんなにも軽く受け入れているのか」という事が気になって違和感ばかりが膨らみ、そして『全国ロードショー長編アニメ』の品性に相応しいとは到底思えない「巫女の口噛み酒」なる気持ちの悪いマニアックなアイテムの登場(今となっては「新海さんの趣味のアニメなら仕方ないなー(笑)」と大らかに受け止められるのだが、当時、こちらは宣伝通りの『新たな傑作』と思って観に来ていた)。そのドン引きした心をますます白けさせるかの様に、画面の中で勝手に盛り上がって大粒の涙を流す二人。そして極めつけの心離れは、なんだかよくわからないうちに隕石の落下が回避され、災害がなかったことにされた事。「震災後の命と愛の物語」と期待して観ていた者としては、この命の軽い扱い(たとえフィクションの中とはいえ)には失望を越え怒りすら覚え、『君の名は。』は自分史上最低の「宣伝に偽りあり」のワースト・アニメになってしまった。

【これはアニメ自体以上に宣伝に罪がある。大ヒットさせ、商業宣伝としては大成功だったのだろうけれど、内容・作品テンションと乖離したイメージを作り上げるのは作品と観客に対して不誠実極まりない。この一作の大ヒットと引き替えに、ここから入った映画ファンの新海誠に対する信用を損ない、結果、多くの新海誠アンチを生み出してしまったのではないだろうか】

さて今回、『君の名は。』の時の様に「感動巨編」を煽る様な宣伝はあまり見かけず(テレビをあまり見なくなったという事もあるのかもしれないが)、内容にさほど先入観なく、そして「新海誠の作家性」とでもいうものに多少の理解をもった上で劇場に足を運んだ。しかし最初に書いた様に、もしまた内容に失望したら(今作を観終えるまでは、新海誠は絵は良いんだから、脚本はちゃんとした別の人に任せれば良いのに……という思いがあった)、これを限りにさようなら……という密かな思いを胸に。

しかし結果、冒頭から最後まで、あまりにも詩情豊か、「幻想(主人公の妄想的視点も含む)」と「リアル」が絶妙に混成された美しく独特なアニメ表現に感動のあまり心震え続け、そして、すごく狭くて小さな、豊かでもなく美しくもない世界の中で内向きに、ささやかに、「自分の今の恋情の他、世界や未来の事なんてどうでもいい」と生きる──(それは単純にファンタジック・ヒロイックな心理ではなくて、貧困や環境、社会問題が日に日に深刻になりつつある現代の若者の「絶望と表裏一体の希望」とでもいう様な、とてもリアルで刹那的な心理の象徴だと感じた)──そんな少年心理の詩情に、あわやむせび泣いてしまう直前まで、 僕は深く深く心動かされてしまったのだった。

この映画、主人公を中心に(あまりにも)都合よく物語世界が進行し、結局主人公はほとんど成長せず、 外的世界の重大なドラマと主人公のささやかな内的ドラマの規模の釣り合いもまったく取れていない。そして、この後の帆高と陽菜には恐らく幸せな未来が続く訳でもない。つまり、いわゆる王道の「よく出来たファンタジー大作」の方法論とは程遠い作劇法がとられている。しかし、そのすべてが逆説的に「子ども時代の全能感が現実の挫折感に取って代わり始める年頃。その過渡期にある少年が心に描く、最後にして最も美しい、自分中心のファンタジー」そのものの様な作品としてこの映画を成立させる事に貢献していて、この独特な劇作法は新海誠一流のドラマ性・文学性と高く評す他ないだろう。

『君の名は。』は宣伝の問題だけではなく、やはり作品的にも弱点があって、あの映画は瀧くんと三葉ちゃん、W主人公とした事で新海誠的な「個人的問題のみにフォーカスを徹底する」没入感、排他感、自己陶酔感とでもいうべき魅力が所在なく映画の中にふんわりと分散し、掴み所のない映画になってしまっていた様に思う。対して今作は少年一人の内的世界に徹底して軸が置かれ、「彼にとっての世界・環境・人々」として物語が紡がれていて、これは新海誠の真骨頂にとどまらず、「この年頃の少年のファンタジー」として、ちょっと類例を見ない高みに達している様に感じた。

主人公「帆高」と同じ少年世代、まるで主人公の未来の暗喩の様な、挫折を経験した「須賀」の大人世代、その中間の「スカウトマン木村」の様な未成熟な青年世代、(そして例外的ながら、いまだ全能感の只中にある「凪先輩」と同じ子ども世代)、この映画は全ての世代の男性に、自らの少年時代の「あの頃・あの一瞬」を思い出させる圧倒的な力を持っている。しかし、翻って女性にはどうだろうか? もしかすると、女性の中にはこういった男の独りよがり、思い込み、内向が気持ち悪く、「理解できないもの」として全く共感出来ない人も少なからずいるかもしれない。

けれど男とはこういう生き物なのだ。もし理解、共感が出来なかったとしても、それはそれとして、この、貧しさに鈍した狭い世界に生きる子どもたちの切実な物語を愛してあげて欲しい──と思うまでに、僕はこの映画に惚れ込んでしまった。

『天気の子』公開中


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