三谷かぶき『月光羅針路日本』

一幕が終わった時点では、これは駄目かと思った。

松也の使い方は新鮮でとても良く、馴染みの歌舞伎座をまるで別の空間の様に感じさせ、「これはこれからとんでもない事が起こるのではないか」と鳥肌の立つ様な期待を感じさせた。が、幕が開いてからその期待は急激にしぼむ。一幕は前場が海を漂流する船上、後場が漂着して仮住まいする海岸の情景なのだが、しかし、船も波も動かない、まるで「室内」の様な船上シーンから陸地への場面転換には全くメリハリが無く、ただただ同じ舞台空間で延々と会話劇を続けているかの様で、壮大な流浪のドラマのスタート感が全く感じられずに終わった。

そのあまりの『移動感』のなさに、「密室での洒脱な会話劇が面白い三谷幸喜の芝居に、果たして『風雲児たち・大黒屋光太夫』の話をあえて原作にする必要があったのだろうか? たとえば籠城する城内と城外で展開するユニークなドラマだとか、もっと他に適した物語があったのではないだろうか?」などと余所事を考えながら淡々と舞台を眺めた。

しかし二幕、ロシアに上陸して滞在地を転々とし、帰国するためのドラマは進行するものの故郷はどんどん遠くなっていくという段に至って、この物語(歌舞伎)は驚くべき疾走感と推進力を帯び、一場面一場面、歌舞伎座の舞台がまるで壮大なロシアの広野の一部分であるかの様な時空の伸びを舞台に描き始めた。

これは三谷劇特有のテンポの良さと面白さ、「演者が歌舞伎役者である」という特殊状況を見事に組み込んだ脚本の妙、そして、その期待に万全以上に応えた役者たちの優れた役者力──それら演劇的諸要素の見事な融合による「劇的なもの」の炸裂が、歌舞伎に全く新しいリズムを与えたが故の成功であろうと僕は感じた。

この独特な芝居は三谷幸喜という現代演劇人による歌舞伎の演劇化でもなく、また、歌舞伎が三谷の要素を上手く取り込んだという類のものでもない。そのどちらもが当価値に互いに互いの魅力を高めあった、まさに「三谷かぶき」という新しい歌舞伎(劇)という他ないだろう。(ベクトルは違うが、宮城聰の『マハーバーラタ戦記』にもこれと同じ魅力を感じた)

役者たちも素晴らしかった。とりわけ三谷と現代劇での共演がある猿之助、愛之助の「三谷かぶき」の飲み込みの良さは抜群で、猿之助は歌舞伎に軸足を置き、要所要所で「歌舞伎らしさ」をふんだんに見せ、この芝居の歌舞伎的な面白さ・奥深さを存分に堪能させた(上半身だけで西洋的優美さを表現するエカテリーナも、猿之助ならではの女形芸として大変素晴らしかった)。愛之助は「歌舞伎役者」という以上に優れた「俳優」として、ドラマチックな劇の奥行きを体現する要となった。そして、キャラクターとして「しどころ」の多いその二人と違い、幸四郎の光太夫が自らの「しどころ」をぐっと堪え、狂言廻し的主人公としての芝居の筋を立派に通した事により、旅の始まりから終わりまで、一筋の道程がしっかりと三時間の芝居の中に描かれた。

その他演者の活かし方も絶妙で、高麗蔵のロシア語劇はまさに三谷劇として抜群の面白さだったし、竹三郎と寿猿の「今の何だったの?」という登場は歌舞伎を愛する者にはたまらない。そして八嶋智人。この人の配役は「三谷かぶき」の細部のバランスを見事に整えた。しかもラストの早替り……これは今まで観たことのない、実に鮮やかで驚きに満ちた三谷劇らしい「早替り」だった。

一幕と終幕の「海」があまりにも穏やかで(まるで沖合間近の凪いだ海の様で)、本編の壮大な「荒波」のドラマとの釣り合いがあまりにも取れていないこと──個人的にはこの部分だけがこの芝居の弱点で、この点さえ更新されれば、今後も長くレパートリーとして再演されるべき芝居だと感じた。

いずれにせよ、「三谷かぶき」は是非これからも観たいと思う。


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