ミステリーの舞台化といえば昨年の新派公演『犬神家の一族』の大成功が記憶に新しい。その成功はひとえに台本と演出の良さ、ベテランから若手まで演者の熱演の賜物ではあったものの、根本には横溝正史と新派の芝居、それぞれに通底する「消えゆくものへの哀惜の情」が見事なまでに合致した──という幸福な事情もあった様に思う。

さて、今回はどうだろうか。この演出家・松崎史也という人の舞台、そして今回の様な座組の芝居はあまり拝見した事がなかったので、京極夏彦の大長編(氏の作品中では比較的短いとはいうものの)『魍魎の匣』がどの様に演じられるのか、いわゆる2.5次元的な見目麗しいキャラクターの魅力を追求する舞台になるのか、あるいは作品世界の雰囲気を強調した舞台になるのか、事前には全く予想がつかなかった。

実際観劇してみると、確かにそういった「キャラクター」や「作品世界の雰囲気」も必要十分以上の魅力をもって実演されており、その点を第一に求める見物の望みにも万全に叶うものとして完成されてはいる。しかしそれ以上、大長編の原作の情景ほとんどすべてが採用され、ほぼ「完全舞台化」されていた事が何より一番の驚きだった。それはしかも、単に正確に筋をなぞるという意味ではなく、僕の思う京極文学の最大の魅力、「実存論的哲学」的な論理思考の世界が一つの芝居として完全に表現されていたという点で、この舞台は望むべき最大のレベルで「完全」な舞台化であったと思う。

舞台と客席の境界の「辺」を強調し、舞台、劇場全体を『匣』に見立てたかの様なシンプルな舞台。立方体の装置の移動と文字のプロジェクションによって時空を自在に操る演出手法はかなりの手練れで、構造美際立つその装置・演出はストレートプレイやミュージカルというよりも現代オペラ的演出手法に近い。ベルクやツィマーマンの「音楽の情感以上に音楽理論を優先させた」現代音楽に替わって、京極夏彦のロジックと科白の美学をもって「演奏」とした、まるで新たな現代オペラを鑑賞しているかの様な独特な感興である。

冒頭の説明的な駆け足や役名のプロジェクションなど、全体的な上質さの中に若干見栄えが劣る部分はあったものの、2時間10分で過不足なくこの物語を上演するため、それはどうあっても必要な駆け足だったと思うし、驚異的な「完全舞台化」を実現した功績の方が遥かに大きいと評せよう。役名のプロジェクションに関しては、プロジェクションする文字がこれだけだったなら「説明的な演出」として一格落ちる見え方になってしまったと思うが、久保竣公の原稿や新聞記事なども匣の中にプロジェクションした事により、この物語が「言葉(ミステリー文学)の呪の中にある物語」であるという表現の一環として現れ、これはよく思慮された一石二鳥の解決策であると膝を打つ思いだった。

演者の面では西岡徳馬、紫吹淳の実力が際立つのは当然の事ながら、そのベテラン勢と引けを取らずに舌戦を繰り広げる橘ケンチの京極堂が見事だった。プロフェッション的にダンサブルな反閇が最大の見せ場になるか……と思いきや(それも素晴らしかったが)、それ以上に、抑制した台詞回しや漂う雰囲気が実に京極堂的で、これは正しくはまり役だと断言して良いだろう。榎津の北園涼、木場の内田朝陽、関口の高橋良輔も役をよく理解し、キャラクターと自らの魅力を上手にチューニングしている。回を重ねればきっと益々輝く事だろう。

他とりわけ魅力が際立っていたのは鳥口の高橋健介と雨宮の田口涼。高橋の鳥口の活躍はサブキャラというよりもまるで主人公四人+1のメインキャラクターの様で、しかし、それが出しゃばった感じにならず、多角的に展開する劇の一視点として非常に良い役割を果たしていた。田口の雨宮は「弱々しい存在感」という難しい役どころの表現が抜群に上手く、もし原作を知らずに観れば、まるで彼が真犯人だったかのような錯覚を感じたかもしれないほど幕切れの表現が見事だった。敦子の加藤里保菜も良い。女学生二人はこれがもっと「普通の舞台化」だったならよりスポットが当たって「しどころ」も多かったろうと思うが、充実した「完全舞台化」だったがために相対的な印象は薄まってしまった。しかし、短い出番ながら耽美な女学生の雰囲気はよく出ていた。

作品の魅力と舞台化の方法論の幸福な合致。

これは新派『犬神家の一族』と同じく見事な舞台化という他ない。


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