『寿式三番叟』

人品そのものが要となる東蔵翁の立派さを除き、この幕で最も三番叟らしい景色を見せたのは松江だった。もう少し軽さに振るか、重さに振るか、どちらかに偏りを作ればより一層存在感を際立たせられたのではないかと感じるが、ふんわりした存在感もまたこの人一流の風情なのでこれはこれで良い。

松也と幸四郎の踊りも踊りとして楽しくはあるのだが、三番叟としての清しさ、明るさがあまり感じられず、まるで二人道成寺を観ているかの様な妖しさ、強烈な意思・情念の様なものが先立って感じられてしまう。

松也はやや力技ではあるものの、しかしそのキレ味は魅力的で、これはこの人の操り三番叟を是非観てみたいなどと思った。そんな目の前の舞台とは別の事を思いながら、幸四郎ではなく松也にばかり目がいってしまう。幸四郎の踊りはこの程度ではないはずだと思うのだが?……とまたいつもと同じ感想に終始する。

『女車引』

役を女形に移し替えるいわゆる「女〜」ではなく、三兄弟の女房たちの車引という趣向(三人出てくるから車引、というだけで特に車を引く訳でもない)。内容としては「賀の祝」っぽい所作が面白いという程度で、特にどうこうというものではなかったけれど、魁春、雀右衛門、児太郎、手堅い女形がきっちりと華やかな情景を見せる。

『石切梶原』

吉右衛門が吉右衛門として唯々本当に素晴らしい。最早何がどうという次元ではなく、身体、感情、全ての動きの一々が圧倒的超越的な境地に達していて、物語の「イデアの様なもの」をダイレクトに見せる、まるで文楽の様な歌舞伎だと感じた。しかし勿論、人形で見せる文楽ではなく役者が実演する歌舞伎である以上、その「イデア」は静的なものではなく動的で、受動的なものではなく能動的で、隠ではなく陽で、その自由闊達なる物語の表現はまさに「物語が命を持つ」瞬間の顕現に立ち会う心地であった。

又五郎、歌昇、歌六、米吉、錦之助も吉右衛門の境地に良く応じた。役者の優れた芸にクローズアップして見せる種類の手法ではなく、まるで芝居全体の調和を俯瞰して見せるかの様な丸本歌舞伎。これ以上の石切梶原は最早望むべくもないだろう。

『封印切』

吉右衛門の俯瞰で見せるかのごとき境地とは違い、忠兵衛という人間の心の動きそのものをクローズアップして見せるかの様な仁左衛門。それぞれ、これほど素晴らしい極地を見取りで観られる今月の昼の部は贅沢この上ない。

仁左衛門の素晴らしさは、やはり、自家薬籠中の役を一切惰性を感じさせず、それどころかむしろ、毎回毎回忠兵衛という人間の命がその場で生きているかの様な「実」を感じせる所にあるだろう。しかも、最前に観た舞台で既に極め付けだろうと思わせた至芸が、更なる心理の深化、輪郭の明瞭化を伴って再演されるのだから、この大名人のいまだ止まらぬ発展はもう、現代の驚異・奇跡と言わざるを得ない。

そんな仁左衛門の至芸に対し、おえんの秀太郎もまた、まさにおえんそのものという見事な至芸である。松嶋屋の封印切は仁左衛門の忠兵衛もさることながら、この人のおえんも毎度見事な上方の年増の情を見せる。けれど今回は特に、仁左衛門の「前回までの芸をさらに更新する」という感じとはまた違い、現実世界ではすでに絶滅してしまった「古い上方に確かに実存した女の挙措や情」の最後の残像──とでもいう様なものが全てこの人の芸の中に集約したかの様な、そんな、なんだか鬼気迫るまでの生々しさが僕には感じられてならなかった。

現実のいわゆる「上方」女性おそらく最後の世代だったであろう明治生まれの僕の祖母は、この舞台の上のおえんの様な仕草、言葉の使い方、表情を本当に見せていた。それは今までの秀太郎や竹三郎の芸の随所に感じられた印象ではあったけれど、今回は「随所」という程度ではなく、秀太郎のおえんがまさにその存在そのもの、それ以外の何者にも感じられないほどその印象が生々しかった。

あと、愛之助の八右衛門は八右衛門としては勿論到底ベストといえるものではないが、愛之助の役の中では近年ベストの出来だった様に感じられた。

僕の感じでは、八右衛門という男は「イケズ」でやらしい男なんだけれども、とんでもない悪人という訳でもなく、さりとて実は善人、という訳でもない。性根がある様でない、筋が通っている様で通っていない、「役」というより役者の「素」で見せる必要がある役の様だという直感がある(役者自身がイケズの必要がある、という意味ではない)。その点、我當や三津五郎、仁左衛門ら、持ち前の大きさや凄みで見せる八右衛門のイケズはべらぼうに素晴らしかった。愛之助の八右衛門はそういった持ち前の役者力や上方の気質でこの奇妙な男の心理を炙り出すのではなく、終始端正に、演劇論的に正しく「演技している」。そこが良くない。もちろん全ての役者は演技をしているのだけれど、この松嶋屋揃いの座組、皆が皆芯から滲み出るかのごとき上方歌舞伎の風情で情景を作っているのに対し、彼一人そうでないのが誠に惜しい。

ただし、忠兵衛と八右衛門の対峙が上方歌舞伎的なものと一般演劇的なものとして現れる見え方はある意味で面白く、今回、結果的には仁左衛門忠兵衛の繊細な心理の動きを正しく映し出す装置として、愛之助八右衛門は素晴らしい仕事をしていた様に思う。

逆説的に言えば、上方歌舞伎的な世界の外、様々な演劇・ステージで力を養ってきた愛之助の実力は歌舞伎の枠にとらわれるものではなく、それは他の歌舞伎役者にはない大きな力には違いない。今不足に感じられる上方歌舞伎の性根というのは、この素晴らしい松嶋屋の座組みでの共演が今まで少なかった事にひとえに由来するものであろう。

孝太郎も父上の相方役の経験を重ね、今や上方芝居の大きな力となった。望んで叶う事ではないかもしれないが、この封印切を契機として、愛之助には是非是非この大名優たちと同じ舞台で上方の役を今後多く勤めて欲しい。外部で培ったこの人の実力は、必ずや上方歌舞伎の大きな未来の力になろう。


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