【詩情豊かで美しく、ほろ苦く、人生への示唆に富んだ「イタリア映画」……その豊穣の歴史の高純度の結実。ロッセリーニ的でもあり、ヴィスコンティ的でもあり、フェリーニ的でもある。しかし、かといってそのどれでもない。イタリア映画の歴史とヨーロッパの神話、そして世界の行末の示唆に富んだ現代の寓話】

 

イタリア映画はお好きでしょうか?

どこの国の映画といって、僕はイタリア映画ほど好きなものはありません。

個々の作品を国別で語るのはいささか大雑把であり総論的ではありますが、やはり、映画にはそのお国柄が滲み出る様です。

たとえば、フランス映画はつまるところ「スタイリッシュ」ということに収斂して行くような指向性、ドイツ映画は高踏的、アメリカ映画は言うまでもなく面白さを追求したエンターテイメント。……もちろんそればかりではありませんが、やはりなんとなく、それぞれの国の毛色というのは皆さんお感じになるものではないでしょうか?

さてイタリア映画ですが、「イタリア映画が好き」と言いながらも、この国の映画の毛色は他国と少し違っていて、ちょっと例外的なものというイメージが僕にはあります。

この国の映画にはデ・シーカやロッセリーニを代表とするとヴェリズモ(ネオ・リアリズム)の系譜があり、ヴィスコンティの貴族的な旧時代への愛惜の眼差しがり、フェリーニの戯画的な詩情の世界があり、今回の話とは少しずれますがダリオ・アルジェントという恐怖美学の大巨匠がいます。これら、個々の映画史的巨人の個性は他国の「一国の映画の毛色」に匹敵するほどの独自性と強靭さがあって、どの作風をとっても「イタリア映画的なもの」の代表とは断じ得ない、ある意味「イタリア映画的」という概念を一つに絞り込めない多様性こそが、むしろイタリア映画的──という(まるで禅問答の様な)懐の深さが、この国の映画の魅力だと僕は思っています。

さて、この『幸福なラザロ』

この作品の監督、女流のアリーチェ・ロルヴァケルは自分がそういった「イタリア映画史」の末裔であり最前衛であるという事を、非常に意識し、咀嚼、理解している人だと感じます。

この映画には上に例示した様なイタリア映画の巨匠たち、それぞれの「イタリア映画的」なもの総てが詰まっており(ダリオ・アルジェントは除く)、とはいえ、回顧・オマージュに帰結するのではなく、この人・この時代だからこそ撮れた──ロルヴァケル独自の「作家性」「時代の必然」が全てのシーンに滲んでいます。

これはストーリー(あらすじ)ではなく、映画という表現方法でしか語り得ない「ヴェリズモ」と「詩情」と「郷愁」の物語なので抽象的な話に終始してしまっていますが、少しだけ具体的な話をするならば、この映画、まるでプライベートフィルムの様な質感のスーパー16mmフィルムで全編撮影され、ヴェリズモ的な手法による現代イタリアのある村の日常風景から物語が始まります。(ドキュメンタリーではなくあくまでもヴェリズモ。この絶妙なニュアンスがイタリア映画としての第一の見どころ)

しかしこの村の人々、小作農制度は既に法律で禁じられているにもかかわらず、元領主の女侯爵に騙されて自分たちは侯爵家の小作人だと信じ続けて生きています。村人たちは村のイノセンスな少年、ラザロを重宝に使って労働力として搾取しているのですが、実は、村人たちは女侯爵とその遣いの者たちに搾取され続けているという……。

前半、物語は美しくも不穏、目を見張るほど高純度のヴェリズモ映画らしくスタートするのですが、領地の屋敷にやって来た女侯爵と息子タンクレーディとの交流の中、ラザロはある出来事によって、観客から観て「おや?」と思える不思議な存在になってしまいます。(この辺りの解釈の「正解のなさ」加減は絶妙で、この映画のテンションが明らかに切り替わる瞬間が第二の見どころです)

やがて女侯爵の小作人たちへの詐欺犯罪は露見し(実際にあった事件がヒントになっているそうです。大胆ですね)、村人たちは国によって救出されるのですが……。

あまり語り過ぎては野暮かと思いますので、あらすじはこれぐらいにしておきますが、後半(後半はすべてが見どころ)、この映画はヴェリズモ的な「現代ヨーロッパの現実」に軸足を置きながらも、ラザロ少年を中心とした少々浮世離れしたファンタジックでフェリーニ的な「詩情」、嘘ではあったけれど美しかった女侯爵領(前時代)へのヴィスコンティ的な「郷愁」を絶妙に織り交ぜ、この映画独自の美学的世界を構築してゆきます。

ただ美しいだけでもなく、ただ悲しいだけでもなく、「完全な幸福も完全な不幸もこの世には存在しない」という『結論のない結論』に向かって、この映画は静かに収斂してゆきます。

この映画は、たとえば「謎解き」や「解釈」「カテゴライズ」を求める様な観方をしてはダメな種類の映画で、この映画ありのままに鑑賞し、その余韻を深く心に残す──というのが、きっと正しい観方の様な気がします。

ただ一つだけ解釈めいた感想を言うならば、とりわけファンタジックに登場するオオカミ。

このオオカミはきっとローマの建国神話、ロムルス・レムス兄弟を育てたオオカミの暗示なのだと僕は思いました。そのオオカミがローマを去ってゆくラストは、この映画を一編の「現代の神話」として見事に完成させているように僕には感じられました。

方法論やテンションは全く異なりますが、『たちあがる女』と甲乙付け難い、今年必見のヨーロッパ(イタリア)映画の一本であることに間違いはないでしょう。

『幸福なラザロ』4/19(金)公開


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