【市川崑の金田一耕助映画の様に陰影深くてスタイリッシュ。70年代のクリスティー映画ほど豪華絢爛な「ザ・オールスター」感はないが、実力的にはそれに匹敵する演技力と存在感のある名優たちが揃っている。そして、屋敷の内装、登場人物と一緒に映り込む絵画・肖像写真で人間関係や人物の自意識を象徴的に表現する手法など、演劇的な演出手法が非常に洗練されており、すべての要素が格調高い「悲劇としてのミステリー」の実現に貢献していてる。こんなミステリー映画こそを、僕はずっと観たかった】

この映画、本当に上に書いた事に尽きます。

豪華な寝台特急やエキゾチックなリゾート地のクルーズ、孤島や見立て殺人が登場する訳でもない。全員が全員、何やらギラついたアクの強い容疑者たちが勢揃いしている訳でもない。登場人物たちは死んだ大富豪の息子夫婦たち=セレブリティーではあるものの、皆どこかうらぶれていてパッとしない。舞台はほとんどレオニデス屋敷の敷地内だけ。……クリスティー作品の中でも比較的地味なこのノンシリーズの作品を、よくもまぁ、ここまで70年代の『オリエント急行殺人事件』や『ナイル殺人事件』に匹敵する格調高く重厚な映画に仕上げたものだと、まず感嘆せずにはいられません。

何やら古い映画ばかりを引き合いに出すので、古臭くて懐古義的な映画と誤解されるかもしれませんが、全然そんなことはなくて、映像的技法や色設計(特にこの映画は画面内の「色」と「美術品」の暗喩的な配置のバランス感覚、インテリア・ファッションのセンスが抜群に素晴らしいです)、カメラワークなど、実に現代的、かつ洗練された最前衛のセンスが凝縮されていて、この感覚で再現された第二次大戦終戦直後の時代感覚(=直接の因果関係はないけれど、時代としての大きな悲劇の背景)の見事な描き方がまず第一の見どころです。

音楽も派手ではないけれど、まさに「ねじれた」感じの不協音が悲劇のムードを適度に(大袈裟ではなく)引き立てます。

スタイリッシュな映像効果や奇矯なキャラクタライズに逃げるのではなく(そういった現代映像作品も面白いとは思いますが、ここまで正統的な手法でアガサ・クリスティー作品を現代に再現した本作に敬意を表し、あえてここでは「逃げ」と言います)、ギリシア悲劇からシェイクスピアの史劇・悲劇を経てクリスティーに至った「悲劇としてのミステリー」という文学を正攻法、知的な方法論によって映画化した劇的なこの作品が登場した以上、今後『ナイルに死す』を公開予定のケネス・ブラナーは一寸うかうかしてはいられないのではないでしょうか。

あと、冒頭にも書きましたが、この映画、あえて人物と同じ画面に写し込む肖像画・肖像写真の使い方が非常に上手いですね。

自らの理想像、成功イメージに呪縛される女たち、妻の尻に敷かれる夫たち、そして、死してなお一族の頭上に君臨し続けるアリスティド・レオニダス。

……それらの象徴表現の巧みさもさることながら、肖像画がほとんど一緒に画面に写り込まない人物(自らの意思で運命を決める人物)がいるという演出も大変凝っていて、その俳優の悲劇の表現の深みが、悲しい結末のあと、非常に切ない余韻となって残ります。

これを超えるアガサ・クリスティー映像作品を撮るのは、以後なかなか難しいのではないでしょうか。

『ねじれた家』


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