通し狂言『星合世十三團』

義経千本桜の通しを海老蔵が早替りで全て見せる趣向の芝居。海老蔵の古典、特に丸本物は形だけなぞる様で実や深みに乏しく、期待を裏切られる場合が往々にして多い。が、一つ一つの段を本尺でしっかり見せるのではなく、早替りという外連味を軸にしてダイジェストの様に切り替えてゆく、三代目猿之助がよく演っていた「古典の通し・外連味翻案芝居」の系譜に連なるこの大芝居、個々の段・個々の役の掘り下げの重要度が下がる分、幸いそういった弱点があまり気にならない。

團十郎となり、歌舞伎のスタンダードとならざるを得ない運命を背負った海老蔵には、奇抜、高踏的な新作よりももっと古典に力を入れて観せてもらいたいもの……と個人的に思う者として、本尺ではないものの、三代目猿之助が切り拓いた通し狂言「この道があったか」と、今回は今までにない大きな満足感を伴って海老蔵の芝居を堪能した。

彼自身、古典をしっかり、というよりも斬新な手法で見物を楽しませるのが好きなのだろう。早替りでほぼ出突っ張り、知盛、権太、忠信、その他多くの役を熱演し、また、海老蔵らしいド派手な趣向なども用意して見物をもてなす姿は純粋に感動的で、演出など賛否が分かれる部分はあるかもしれないが、僕としては今月の海老蔵には心からの拍手を送りたい。

……ということで、今月夜の部はとにかく大満足。感動した。というところではあるが、それではいささか乱暴なので、いまいち悪いと思った点、とりわけ良かった点、それぞれ最後に列記したい。

【悪かった点】

  • 口上人形のスタイルを趣向として取り入れるなら、各役者の役人替名の後に拍手が起こる様に誘導して欲しいところ。梅玉、雀右衛門クラスの名前にも拍手が起こらず、最後、十三役の海老蔵だけ一々役と名を呼び上げ、十三回の拍手を誘導するのはあまりにもバランスが悪く配慮に欠ける。ここは各役の後に拍手が起こる様に「エッヘン」を入れるなり関係者で拍手を率先するなりし、そして最後の海老蔵は役名を連ねた後、「以上十三役、市川海老蔵、市川海老蔵」の方が劇場の空気がよっぽど温まるだろう。拍手がないから手を抜くなんてことはないだろうが、梅玉は本来彼の義経の魅力全開ではなく、なんとなく楽な仕事をしているように見えてしまった。それは、この口上人形での配慮のなさに少し白けてしまったこちらの気分の問題の様にも思える。
  • 序幕、『ごひいき勧進帳』趣向の弁慶。ここは成田屋的な荒事の魅力の見せ所だと思うが、なんとなくドリフのコントの様に見えてしまうのは問題。そもそもナンセンスギャグの様な一幕ではあるものの、それをも「古式ゆかしい荒事の芸」として見せるべく、ここは一幕目で最も重要な場面であることをより強く意識して欲しい。
  • 同序幕、卿の君の女形の役があまりにも成っていない。立役だけで十分魅力的な役者なのだから、早替りの役を増やすために無理をして女形の役までするべきではない。下手な女形がいると、同じ舞台に載っている名人まで不思議と地の男が見えてきてしまう。本職の女形に大変失礼。ダメ。
  • 渡海屋は入江丹蔵なしで右團次一人の相模五郎、奥座敷で海老蔵が丹蔵──これも良くない。スター性と名題を差し引いて考えれば(現実的にそれを差し引くことは不可能だから、海老蔵が主役を務めているのだが)右團次の方がこの三代目猿之助流の芝居は上手いはずと思う客は少なからずいるだろう。そこを、あえてこの様な形にしてしまっては「奥座敷の入江丹蔵に海老蔵が登場した」というお楽しみよりも、むしろ「右團次でこの芝居を見て観たかった」という思いが僕には強く感じられてしまった。渡海屋で右團次を出すなら、ちゃんと奥座敷の入江丹蔵も彼に任せた方がいい。知盛と丹蔵を一緒に演じるのは流石にあまり感心しない。
  • 維盛の和事師の感じがあまりにも乏しい。これはそもそもニンではないのだから別に構わない事ではあるが、この三役(卿の君、入江丹蔵、維盛)はむしろ替役に含めない方が良かった様に感じる。十三代團十郎襲名に掛けての十三役、という事が今回は先行したのだろうけれど、もし再演する機会があれば、早替りは十役で十分で、その方がドラマも引き締まる様に感じる。
  • 四の切、狐の身悶えるような孝心というのが全く出ていない。ここは他の段と違ってほぼ本尺の形に近い場面でもあり、また、今まで散々素晴らしい四の切を観てきたこともあり、残念ながら他の場よりも大きく見劣りしてしまった(精一杯通しで見せてくれているという圧倒的な感動はあったものの)。本尺の各段を堪能させるには道はまだまだ長いかもしれないが、自身の良さを活かした「早替り通し狂言」を突き詰めていくうちに、丸本本尺の理解もきっと深まっていくのではないだろうかという予感がある。海老蔵には是非この手の芝居を続け、そして是非この道を極めて欲しい。

【良かった点】

  • 修羅道の悲哀や悲惨を理知的に表現する仁左衛門の知盛と違い、実に古めかしい、堂々とした荒事的な知盛。全体としてはダイジェスト的な芝居ではあったものの、この大物浦の場に関しては本尺の芝居に匹敵する密度と集中力があり、見事な團十郎(海老蔵)の知盛になっていたように思う。素晴らしかった。
  • いがみの権太も仁左衛門の様な「家族の情愛を深く丁寧に描く」というタイプとは違い、「身を持ち崩した憎めない色男」として、海老蔵自身の魅力を巧みに活かした一種独特なリアリティーが表現されているように感じた。海老蔵がここまで権太にはまるとは全く予想していなかった。
  • 小金吾討死も良かった。何ということはない様式美的な立ち回りが、こんなに海老蔵に映えるとは思ってもいなかった。とりわけ観たいとも思わない「鈴ヶ森」など、海老蔵でなら観てみたいと思った。
  • 大詰の早替り、あまりの目まぐるしさとサービス精神に苦笑まじりに観ていたが、その心意気は本当に素晴らしいもの。客を喜ばせようとするこの姿勢に、見物は惜しみない拍手を送らざるを得ない。最新技術を使用したぶっ飛んだラストの演出も(個人的にはなくても充分、その前の場面まででもう大満足ではあるが)、これが海老蔵流の客のもてなし方というのなら大いに結構、心ゆくまでおやりなさいという気分で、やはり、自分のやりたい事を高レベルでやりきって見せる人間の仕事には、人を感動させる大きな力があるものなのだと実感した。
  • そして、各段の切り場語りを愛太夫がピシッと勤めた事、この手の芝居を長きにわたって磨き上げ、育て続けてきた三代目猿之助の功績──その二つが、今回の成功を陰で大きく支えていること。これも決して忘れてはならない大切な事だろう。

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