『盛綱陣屋』

言うまでもなく……と言う以上に、当然ながら……というどころではなく仁左衛門が素晴らしい。

この人自身が能動的な芝居を演じて見せる場面が「格好良い」「見事な絵面になっている」という事は言うまでもなく(言うまでもなくとばかり言っている)、注進を受ける場面、時政の命を受ける場面、小四郎の末期の願いを聞く場面……いわゆる「受ける芝居」の表現が、他の役者ではちょっと見られないほどに、歌舞伎や新劇といった「ジャンル」の範疇を超えた「劇」の真髄に達していると僕は(いつもの事ながら)感じた。

しかし、この盛綱陣屋ではそれ(受ける芝居)すらも超えた場面──造作の首と対峙する「首実検」という、相手のいない『たった一人の芝居』があって、この一連の切実な表現が、もう、この人、この芝居でしか観られぬ超絶な境地に達している。

この表現の深さ、緊迫感は凄まじく、おそらく五分もないであろうその場面が悠に十分近くの濃密な時間に感じられ、この芝居の間は観客誰もが息を呑んで、まるで玉三郎の阿古屋三曲の演奏時に匹敵するほどの静寂が客席を覆う。初日にしてこんなにも客席に集中力が満ちた歌舞伎座は、僕の経験では初めてかもしれない。

丸本を「型」ではなく、ここまで切実な表現、真に迫る芝居で観せる名人は、おそらく先月の吉右衛門、今月の仁左衛門以降、当分お目にかかれないかもしれない。

しかし、それは次世代を低く見積もっているという意味ではなく、この境地には並大抵では達する事は出来ない、とてつもなく時間が掛かる──という意味だ。そういった意味において、今から最も時間をかけて精進が出来る勘太郎君、寺嶋眞秀君がこの舞台に共演できた事はただひたすらに嬉しい。

ほか、今回は盛綱妻・早瀬の孝太郎に緊張感が漲っていて素晴らしかった。

『雷船頭』

猿之助の女形の素晴らしさ、踊りの上手さを知っている身としては、今回の女船頭はどうも物足りない。いつもの溌剌とした踊りの切れ味、この手の役のあだっぽさ、おきゃんな愛らしさが絶対的に不足していて、この女船頭はまるで精彩を欠いた老け女形の様。一体どうしたのだろう?

弘太郎の雷も全く踊り的な風情がなく、延々マイムの芝居をしている様で、この曲は元々こんな作品だったっけ? と首を傾げてしまった。

これは偶数日も観てみたいと思わせる仕掛けなのだろうか?

『弁天娘女男白浪』

時代物の侍役ではいささか一本筋が通らない印象、世話物でも人物造形がいささか浅い印象の幸四郎。芝居の中で変化するこういった役には良く嵌る。飽きっぽい人なのだろうか?余計なお世話ではあるが、この人はこれからどういった方向性を目指していくのだろう?……などとぼんやり考えながら観ているうちに芝居が終わってしまった。

悪くはないが、初日の段階ではまだとりたててどうという事はない濱松屋。猿弥南郷とのジャラジャラも実にあっさり。


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