東京二期会公演・東京文化会館(2/22)

【時代区分としての「現代オペラ」の完成形。しかし、完成形であるがゆえに、常に最前衛である事を求められる「現代オペラ」的ではない──という不幸な自己矛盾】

初めて聴く曲。

三島由紀夫の原作が一人の男の徹底的な内面の物語なので、このオペラもベルクの『ヴォツェック』やシェーンベルク『期待』の様に不協・特殊音階で執拗に、繊細に、「聴く者に一種の不安を感じさせる」タイプの暗い現代オペラなのかと予想していたが、全く違った。

この楽曲の物語へのアプローチは主人公・溝口の暗澹たる内面を照射するのではなく、溝口を取り巻く様々な外的要因を音楽的に表現する事、つまり「卑小な溝口に対峙する巨大な世界・圧」を現代音楽的オーケストレーションで輪郭強く強迫的に描く事によって、溝口の薄弱で孤独な存在感を逆説的にあぶり出している。

まさに現代オペラ的な間断ない強音の連続やコロスの合唱は、あたかもそれ自体が『金閣寺』の様に圧倒的・威圧的な美をもって溝口(および聴衆)の耳と心に迫る。そういった意味において、このオペラは「超然的な金閣寺の美」を音楽的に表現し、構造的に『金閣寺』という小説を(ある意味逆説的に)再現する事に見事に成功していると感じた。

しかし、このオペラが音楽史的にあまり評価・言及されないのは(僕が蒙昧なだけかもしれないが)、この楽曲には黛敏郎固有の音楽的方法論・特殊性という様なものがほとんど感じられず、非常にオーソドックスな、ある種「現代オペラ」の見本の様な作品に仕上がっている所に理由があるのではないかと感じた。

常に「最前衛の方法論の追求」を命題に課せられるがごとき現代音楽の世界にあって、これはいささか評価の判断に戸惑う作品ではある。しかし、「現代オペラ」をその様な「前衛音楽(常に前進を目指すもの)」として捉えず、シェーンベルク、ベルク以降の「一連の音楽の時代区分(ロマン派・後期ロマン派的な)」として捉えれば、このオペラはその時代の一つの完成形の様でもあり、いわば「現代オペラ」の古典として、今までこの種の作品にあまり馴染みのなかったオペラ・ファンにもある意味親しみやすい入門作品なのではないかと感じた。

僕自身も『ヴォツェック』を初めて聴いた時の感動を懐かしく思い出した。今までになく平明に「現代オペラ」を楽しむ事が出来た大満足のオペラ公演だった。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。