『熊谷陣屋』

【上出来過ぎて、まるで幻のような】

そんなに陣屋ばかり見せられてもなぁ……と思いながら足を運んだものの、当然ながらこの面子で下手な芝居な訳はない。言うまでもなく吉右衛門の熊谷はマイ熊谷の中の極め付けで、今までは掛かる度にいささかの違和感を感じなくもなかった赤面(芝翫型と言うのだったか?)に、「ああ、最後の最後まで本心を隠し続けるこの役、しかも追い払われる節分の鬼の様に舞台を去って行くこの役は、やはり赤面であるべきなのだなぁ」と妙な得心に至ってしまった。

歌舞伎(特に丸本)は基本的に、女形は立役の芝居を受ける芝居、立役はその逆──という劇構造だと理解しているのだけれど、この吉右衛門の熊谷は魁春・相模、雀右衛門・藤の方の実ある芝居を見事に受け、二人の女の苦悩(実は我が妻、我が身の苦悩)に大きく、深く共感し、耐えて見せる。「苦悩」をこれほどリアルに身に受ける武士の芝居──これはもう、そうそう観れるものではないだろう。

菊之助の義経は、さすが、この姑と父上の名演を間近で学べる果報者だけあって、堂々たる風格である。翻って、新作や企画物に忙殺される他家の御曹司たちはどれほど大きな差をつけられているのだろうか?と、余計な心配をしてしまう。前のめりに新しい事に勤しむよりも、地に足をつけて、本流を地道に勤め上げてこその「真の新しさ」なのではないか──とファンが気軽に思うほど、現実は甘くはないのかもしれないが……。

だが、菊之助の義経に注文もなくはない。

堂々とした風格は立派すぎるほど立派なのだが、その了見があまりにも達観に過ぎて、まるで何もかもが(敦盛と小次郎の一件までさえ)義経の深慮遠謀なのではないか?とまで感じられてしまう。たとえば『仮名手本』の直義の様な「高位の公達」が表現のすべての役なら、これぐらいの超然とした風情でも良いのだが、やはりこの場の義経は「全て我が企み」とまで感じさせない程度の人間味=「抜け」があって欲しい。そういった意味で、この役でおなじみの梅玉はつくづく凄い役者だと思った。

歌六の弥陀六も良いは良いが、とぼけ具合がいささか物足りなく感じられ、菊之助の義経と共に「あらかじめすべての事が決まっていたかの様に」(芝居だからもちろんそうなのだが)あまりにも上出来に、綺麗に物語が流れ過ぎてしまった感がある。

……しかし、そういった(ある意味での)不満足は、幕が閉じ、熊谷が花道に取り残された瞬間、僕の中では驚くべき「満足」に反転した。

あまりにも「芝居」らしく、上出来に、綺麗に幕が閉じてしまったからこそ、今まで自分が観ていた舞台は熊谷の「夢」、「十六年は一昔」と達観するに至った、武士だった頃の最後の刹那の回想の様な──そんな、まるで夢幻劇を観ていた様な不思議な感動を覚えたのだ。

演出にそんな意図があったかどうかは知らないが(多分ないだろう)、武士の社会、あるいは芝居の表舞台から弾き出され、嗚咽と共に花道を去って行く熊谷の姿は、まるで『ヴェニスの商人』幕切れのシャイロックの悲劇に重なって見える様だった。

『當年祝春駒』

【新美少年・左近】

陣屋で熱く語り過ぎてしまったので手短に。

  • 梅玉の工藤、その場にいるだけで見事な要となる。この役を演る役者は、やはりこうでなくては。流石です。
  • 虎と化粧坂の米吉と梅丸、まるで浅草歌舞伎の様な初々しさ、華やかさを歌舞伎座の舞台に添える。こういった爽やかな「風」はこれからも吹き続けて欲しい。
  • どこにあっても「錦之助」の錦之助(当然の事だが)。堂々たる役者ぶりが良い。

そして、この幕で一番驚いたのが尾上左近。

今まで彼の存在を知らなかったので(不勉強でした)、突然舞台に現れた見知らぬ美少年に心底驚いてしまった。

小さな顔なのに五郎の隈取りが凛々しく映え、細くとも安定した体幹にスラリと伸びる手足──まだまだ若年ゆえ、もちろん成長途上、未完成である事には違いないが、踊りの切れ味、堂々とした挙措には未知数の未来が見える。

これからが楽しみな役者を知る──これこそ芝居見物の醍醐味だろう。

『名月八幡祭』

【玉三郎と歌六の見事な江戸活写。松緑狂乱の本領】

玉三郎と仁左衛門、久々の芸者とマブ役での共演が嬉しい一幕。それを楽しみに、夜の部一番のお目当てに今月は足を運んだ。

お目当ての満足感も大層なものだったが、その当第一の名コンビの美しさ、素晴らしさ以上に、玉三郎と歌六の「江戸人」ひいては「江戸情景」の演劇的活写が抜群に素晴らしかった。

江戸の人間の人情、意気地、親切、短絡、そして、その場しのぎのデタラメさ──そういった、善悪や理非で割り切れない複雑怪奇な精神構造(と思われるもの)を歌六・魚惣と玉三郎・美代吉はリアルに、そして技巧とは思わせないほどの技巧的巧妙さで見事に活写する。実際のところは知らない。しかし、当時の江戸・深川の人々はこんな間合いや呼吸、いわば「自分たちの美意識と信じる方法」で粋なコミュニケーションをとっていたのだろう──と観ていて確信してしまうほどの説得力が、この二人の芝居にはあった。

もし縮屋新助〈松緑〉と三次〈仁左衛門〉、主要人物全員が江戸の人間だったなら、きっとこんな事にはならなかっただろう。(三次の出自は知らないが、一本調子のタカリの手口や今いち洗練されていない色男ぶりから、これは在所上がりの非江戸人の役どころと見えた)

魚惣の「とんだ奴を引き止めちまったな」、美代吉の「田舎の人とはうっかり話すことも出来ないね」(うろ覚え)という本心の吐露の台詞に、江戸人と非江戸人の境界〈この芝居最大の要点〉がはっきりと見て取れる様だった。

仁左衛門演じる三次は「いつも五両を無心に来るマブ」という以外に何のしどころもない役なので、この人本来の魅力はそれほど発揮されなかった。しかし、そんな何でもない役だからこそ、かえって玉三郎が演じる芸者のマブには仁左衛門以外の配役は考え難い。ここに仁左衛門が配されたからこそ、江戸風情のみならず男女の情緒もきっちりと加味され、芝居により一層リアルな奥行きが出た。

そして松緑。この人は思い詰めて、隠極まって暴発(破滅)する役が本当に上手い。上手いという表現はむしろ適さないのではないか?と思ってしまうほど、真に迫った芝居を見せる。

もちろん、こんな役ばかり演る訳にもゆくまいが、少なくとも今月の松緑の思い詰める哀れさと狂気・破滅の芝居は必見だろう。

新助とすれ違いざま、異常な調子で話しかけられる母娘、あまりの怖さに「お母っちゃん」と泣く幼い娘の気持ちがあまりにも解り過ぎて、恐怖のあまり僕まで「ヒッ」と声を上げてしまった。


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