【原典ファンのお仲間からは否定的な意見が少なからず聞こえてきますが、では、そんな皆さんは一体どんなリメイクだったら満足したんでしょうね?(いや、喧嘩を売るつもりではないんです。本当にそう思うんです)……モノマネに堕さず、リスペクトにとどまらず、ここまで新しくて深遠な映画として完璧に作られたら、僕にはもう、賞賛以外に言葉はないですよ】

白か黒か、右か左か──綺麗に二つに分けられるほど、現実世界は単純なものではない。しかし、それを強引に二極に分けたなら……その“ありうべからざる”歪な境界にこそ、真紅の「魔女」、真の「恐怖」は産声を上げるのだ──。

上の文、二度目の鑑賞後に感極まって勝手に書いた「なんちゃって推薦文」です(笑)。

(ツイッターで #勝手に推薦文 というタグを付けて投稿する遊びを考えたんですよね。この映画に感嘆したあまり……)

僕的にこの映画の核心を読み切るなら、この文の様になります。

しかしこの文、いわゆる「ホラー」について語っている様にはちっとも見えませんね。

むしろ、どちらかと言うと重いテーマの文芸映画への賛辞っぽいです。

たしかに、この映画の構成要素にはそういうところが大いにあります。しかし、原典『サスペリア』の美意識(画面の美しさ、音楽の怖さ、殺人シーンの残酷美……など)=ダリオ・アルジェントの「ホラー美学」を現代に甦らせる以上に、この映画、現代にアップデート、見事にルネッサンスされた、近年稀に見る上出来の「ホラー映画」だと僕は思いました。

オリジナルの「ホラー美学」が「もう古い」とは言いません。けれど、その美学はやはり既に「古典」になってしまっています。(“なってしまった”と言うと悪く聞こえますが、古典になるというのは、いわば芸術作品として最上級の賛辞です)

後代に続く芸術家(映画作家)が新作を作る以上、その素晴らしい「古典」をそのままなぞってしまっては、やっぱりダメなんですよね。(ガス・ヴァン・サントの『サイコ』とか、市川崑『犬神家の一族』の謎のセルフ・リメイクとか……)

古典のDNAを受け継いでいるという事を自覚しつつ、ジャンルの発展史の上で自らはどの位置にあるのかという事を熟慮し、そして、新しく作るべき意味のある新しいものを作り出す──

それこそが新作を作る意味だと思うんです。このグァダニーノの『サスペリア』は完全にそれに成功した傑作──そう僕は感じています。

ただこの映画、映画の本編から離れて語れば語るほど、語りが止まらなくなるというワナ(呪い)が仕掛けられています(笑)。

なのでひとまず、二度の鑑賞直後、それぞれ素直な感に任せて連投した“感想ツイート”を以下にまとめてみます。

・まずは初回鑑賞直後……

>ダリオ・アルジェントの『サスペリア』は極彩色の残酷美の塊、喩えるならば様式美的な「歌舞伎」の様なもの。このオリジナル映画は恐怖やトラウマという単純なものでなく、多くのホラー子ども達の心に『綺麗なものだけが美しいという訳ではない』という美意識の種を植え付けてきた事だろう。

一方、リメイクの本作──これは様式美的・歌舞伎的な世界とは真逆、脚本と舞台装置、役者の個性、そして演出に徹底してこだわった「演劇」的な映画だと感じた。

その「演劇」とは大劇場の安心感ある「商業演劇」的なものではなく、ハズレも多い「小劇場演劇」的なのだけれど、めげずに通い続けた結果出会える稀有な傑作(しかし小劇場的難解さゆえに、人によっては明瞭な作品像が結ばれずハズレと判断されてしまう様な危ういバランスの作品)と、芝居好きの僕の目には映った。

だがこの映画、決してハズレではないと思う。

この映画は「サスペリア」のルネッサンスとして、実に挑戦的かつ意図的な「反転」の主題が全編を貫いていると僕は感じた。

一例を挙げるなら多用される鏡。

“恐怖する登場人物と恐怖の対象を同時にカメラに収める”ホラー映画史的発明の鏡の使い方、この映画では全くその様には使われない。ここでの鏡は「閉塞的社会集団=マルコス舞踏団は、実は外の『77年ドイツ』社会の合せ鏡の世界になっている」という暗喩のため、そして「肉体の境界を越えて他者の心(あるいは肉体)に入り込む」術を想起させるアイテムとして、極めて象徴的に使われている。一方、外部社会・他者と断絶した厳格なメノナイトの宗教社会、母と理解し合えない少女時代の夢の中で「鏡が割れる」のは、その反転として実に象徴的な表現だ。

極彩色とは真反対の美意識で淡々と描かれ続けるこの映画、あるシーンで突然極彩色の世界に反転するのだが、ここで描かれる美意識もまた、ダリオ・アルジェントの魔女映画の「様式美・残酷美」とは真逆の『政治的ゲバルトの結末』としてのグロテスクに決着する。

では、この映画はホラーではなく芸術映画、社会派作品なのか?というと決してそうではない。

社会というものを極限まで小さく閉ざせは、構成員が夢見る「小さな理想郷」などではなく、二極化したセクト内に「地獄」が現出する──という社会実験的、まさに同時代的ホラーなのだ。

僕はそう思った。

>主要演者が全員女優のこの映画、アクの強い演技が見所というのも実に演劇っぽい。

アリダ・ヴァリより地味かと思いきや、じわじわ存在感を増してゆく演技派のミス・タナー。ファスビンダー元夫人が演じるヴィヴィアン・ウエストウッドに似たミス・ヴェンデガスト。エグい目に遭う美少女たち。

……だがしかし、やはりティルダ・スウィントンが抜群に素晴らしい。女優の芝居をここ迄堪能できる演劇的な映画は昨今珍しい。

ピナ・バウシュ的なカリスマ前衛舞踏家として、女セクトの主として、そして非常に対蹠的な三つの替役として、この人の演技力・存在感・美しさがこの作品の交換不可能な核になっている。

>クレジット後の謎シーン、僕は彼女がある人物に施した「術」を観客たちに行ったのではないかと感じた。本来人々の記憶に残る事を志向する芸術作品。しかし、この映画はその意思すら反転させ、逆に忘れるべきではない現実を観客の記憶に残そうとした。これも原典とは真逆の意思であろう。

“母はあらゆるものの代わりになれる存在であるが、何者も母の代わりにはなれない──”

「母」とはダリオ・アルジェントの『サスペリア』、あるいは「虚構」に対する「現実」と僕は読んだ。

まさにこの言葉に集約する、各人それぞれの読み解きが可能なリメイク、グァダニーノのサスペリアだった

・そして二度目の鑑賞後……

>「さてどう来るか?」と身構えて観た一回目と違い、全体像が見えた後の『リピペリア』は満足度倍増。(※リピペリア=サスペリア をリピートするという造語)

不自然に感じていた部分にこそ、むしろ深い意味があった事が解って面白い。本当に良く出来ている。

大女優たちの存在感、少女達の美しさという本質で、これはまごう事無き『サスペリア』

>二回目以降観れば謎は大体解ると思うし、ドイツ赤軍や諸々の知識は本編の物語に合わせてちゃんと説明してくれるので「当時のベルリンは壁で東西に分断されていた」程度の知識さえあれば大丈夫。やりたい事は結構明確な映画。

……まぁ、語る語る(笑)

語る事が多い=良い映画、と言うつもりはないですが、まず、つまらなければ語る事は無いです。

原典『サスペリア』はそれほど「語りたくなる」という映画ではありません。が、それはつまらないからではなくて、あの映画は理屈ではなく、怖さや美しさを「感じる」映画だからでしょう。

感想ツイートでも重ねて言及している様に、今回の『サスペリア 』はあらゆる意味で原典と反転した「あわせ鏡の世界」を構築しようとしたのではないか?──と僕は観ました。

「語るべき映画」「語る必要のない映画」という事も、僕にはその一つの要素と見えます。

さて、ここで冒頭に戻って、この賛否両論の『サスペリア 』リメイク、果たしてどんなリメイクの可能性が存在したのかという事を勝手に考えてみたいと思います。

たとえばニコラス・レフン監督エル・ファニング主演の『ネオン・デーモン』

これはサスペリアうんぬんではなく、エル・ファニングが好きでたまたま観たのですが、モデル業界に飛び込んだ女の子が訳の分からない恐怖に呑まれていく感じ、美し恐い女の子たちが沢山出てくる感じ、光の効果と色調整のこだわりの感じ……「これ、多分『サスペリア』を現代に甦らそうとしているな!」と強く感じたんですよね。

もちろん『サスペリア』に比べたら全くの駄作、とりたててどうという事のない映画なんですが、サスペリア好きの僕はこれ、結構好きでした。

けれどもし、この方向性の作品が『サスペリア 』リメイクとして提示されたとしたら……。

多分、思う事はたった一つでしょう──

こんな映画、ダリオ・アルジェントの足元にも及ばない。

近似の手法、原典の特徴を引き継ぐ様な作風では、どうあがいたってあの『サスペリア』に敵うはずがないんです。

さりとて、「ホラー美学」ではなくあの種の恐怖にクローズアップして作劇すれば、時代が進んだ今、それは多分、パロディーか茶番にしかなり得ない……。

では、どうすれば真の意味での『新版・サスペリア』を作る事が出来るのか──?

それが正しい答えかどうかはともかく、僕の思う答えは……この稿よりお察し下さい。

(了)

【追記・蛇足ながら】

映画なんて自分自身が、良いと感じるか悪いと感じるか、好きか嫌いか──それに尽きるものですから、なにも「新版・サスペリアは良い映画」と力説したい訳ではないんです。映画なんて、それぞれ好きに観れば良い(僕なんがか言うまでもありませんが)

ただ、このリメイクによって、ダリオ・アルジェントの『サスペリア』という傑作を初めて知る人も多いと思うんです。現に、リバイバル上映や今後の4K版上映の話も盛り上がっている。(僕ら「映画大好きおじさん・おばさん」世代が想像する以上に、コンテンツ豊富の今、若い人は古典にまで手が回らないんです。ヴィスコンティやフェリーニでさえ全然知らない。それはまぁ時の流れとして当然と言えば当然で、悪い事とは言わないけれど、やっぱり「もったいない事」だとは思うんですよね)

あくまでも外周の事ではありますが、もしこのリメイクがこれほどまでの上出来の映画ではなかったとしても、そういった一点においてだけでも、僕は(ダリオ・アルジェントを心から愛する僕は)ルカ・グァダニーノ監督に「この映画を撮ってくれてありがとう!」と心から御礼を言いたいですね。

※この監督、『胸騒ぎのシチリア』という映画(アラン・ドロン、ロミー・シュナイダー出演の『太陽が知っている』のリメイク)も撮っているんですが、元々ぬるくて中途半端なサスペンス映画を絶妙な匙加減で洒脱な現代ドラマに産み替えています。この人リメイク上手いんですよね、本当に。


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